【連載】台湾・麗しの島だより——移行期正義の練習帳(第8回)名前が話題となった台湾野球選手――「本当の名前」をめぐって

栖来ひかり(文筆家)
2025/01/05

移行期正義(Transitional Justice)〉……過去に大きな不正や人権侵害があった社会が、真実を追求して責任の所在を明確にすると共に、分断された社会の和解をめざし、より良い未来を築くために行なうプロセスのこと。

これまでの記事はこちら(連載:台湾・麗しの島〈ふぉるもさ〉だより)


掲げた両指のサイン

 「名を奪われると、帰り道が分からなくなるんだよ」

 映画『千と千尋の神隠し』のなかの、こんなセリフを覚えているだろうか? 擬人化された河川である「ハク」が、本来の「千尋」という名前を忘れ「千」になりかけていた主人公に語りかけるこのシーンは、台湾ではことあるごとにSNSなどで取り上げられる。なぜか。それは、多くの台湾のひとびとが「これは我々のこと、台湾のことを言っているのだ」と感じるからだろう。

 大航海時代から今にいたる約400年のあいだ、この島の名前は「台湾」であり、自分はそこに暮らす「台湾人」であるというアイデンティはゆっくりと芽生え花開いた。しかし、いまの台湾を実効支配しているのは「中華民国」だ。国際社会が認めているのは「中華人民共和国」のみなので、台湾がオリンピックなどに出場する際には「チャイニーズ・タイペイ」と便宜的に名乗ることでその場を凌(しの)いでいる現状がある。

 先日、野球の国際大会である「プレミア12」で見事に初優勝を果たした台湾チームの陳傑憲(チェンジエシェン)主将が、対日本の決勝でホームランを放ち優勝に王手をかけた際、両手の親指と人差し指をひろげて胸元にカッコを示しながらランをする姿は、台湾じゅうを歓喜させた。日本も韓国も、どの国際チームのユニフォームにも胸元に国名が記されているが、台湾チームにはない。だから、主将の胸元に多くの台湾人が〈TAIWAN〉という文字を想像して涙を流したのである。その後、SNSでも冒頭の『千と千尋』のセリフを引用して「私たちはたとえ名を奪われても忘れてはならない、私たちは台湾だ」といった発信が人気を博し、胸元でつくる両指のサインは台湾という「想像の共同体」を示す合言葉となった。

台湾チームの陳傑憲主将中央Aflo

「名前」をめぐる移行期正義

 「名前」は、台湾現代史において非常に重要視されてきた事柄だ。日本の植民地下で日本式の名前だった地名は戦後、中国国民党のもと「中華民国」の歴史観を反映した名称に変わった。例えば、市街地のメインストリートの名前は孫文にちなんだ「中山路」、蒋介石にちなんだ「中正路」といった具合だ。また、台北の地名は4つのエリアにわけられ、中国大陸の地名が同じ位置関係のまま縮小して当てはめられた。これには、台湾で生まれた子どもたちがいつか「帰る」日のためにという“反攻大陸”の意思が強く表れている。

 それに対し80~90年代にかけて民主化が台湾社会をゆっくり劇的に変えていくにつれ、脱植民地化の手始めとして積極的な改称が行なわれた。国民党外から初の総統となった陳水扁は、蒋介石を讃える意味をもつ空港や道路、広場の名称を改めた。最近では、台南市が2024年の建城400年を前に、オランダ統治時代の城址を「安平古堡」から建城当時の名称「熱蘭遮城(ゼーランディア城/Fort Zeelandia)」に改称した。「名前」をめぐる移行期正義はいまなお熱をもって進行形である。

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栖来ひかり

(すみき・ひかり)文筆家。1967年生まれ、山口県出身。京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。著書に『台湾と山口をつなぐ旅』(西日本出版社)、『時をかける台湾Y字路』(図書出版ヘウレーカ)、『日台万華鏡』(書肆侃侃房)など。

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