あの日に起きていたこと
2024年12月3日午後10時半ごろ、韓国の尹錫悦(ユンソンニョル)大統領が「非常戒厳」を宣布した。戒厳令は1979年10月、当時の朴正熙(パクチョンヒ)大統領暗殺事件を受けて宣言されて以来、45年ぶりだった。毎日新聞ソウル支局専用のチャットグループでは、スタッフの50代の韓国人女性が「心臓がバクバクする。軍事政権時代の時に行なわれたものですよ。大統領は頭がおかしくなったのか」と困惑していた。
韓国憲法では、大統領が戒厳令を出せる要件として「戦時やそれに準じる国家非常事態」において「兵力で対応したり公共の秩序を維持したりする必要がある」場合と規定している。
戒厳には2つの形態があり、非常戒厳の場合、言論や出版、集会の自由などを制限できる。
宣布後、韓国メディアから速報で議員が国会に集まろうとしていることや、軍が動いているといった情報が流れてきた。議員らが国会に集まるのは憲法上、戒厳を解除するには国会で解除要求案を可決する必要があるためだ。私は速報を書き、国会に向かった。
国会の正門は閉鎖され、大勢の警察官らが警戒に当たっていた。国会周辺には大勢の市民が集まり、デモを展開していた。警察官に大声で詰め寄る人や、兵士を国会に入れないよう手をつないで「人間の鎖」を作る市民らもいた。国会の柵を乗り越えようとする兵士たちを市民たちが柵から下ろそうとして、激しいもみ合いも起きた。
国会の金敏基(キムミンギ)事務総長によると、戒厳令の宣布直後の3日午後10時50分、警官隊らが国会の門を閉鎖し、国会議員や職員らの出入りを阻止。さらに4日未明にかけて、軍用ヘリなどを用いて約280人の兵士を国会に投入した。
門から入れなかった議員、秘書、国会関係者は塀を上って敷地に入った。兵士が入ってこられないよう、議事堂内の入り口を家具などで塞ぎ、建物内にもいくつもバリケードを作った。部隊は議事堂の2階事務室のガラスを割って進入を試みた。国会関係者らが必死に抵抗し、午前1時ごろ、出席した与野党190人全員の賛成で決議は可決された。その後、すぐに軍は撤収し、尹氏が明け方に解除を宣言した。わずか6時間程度の戒厳だった。
残る40年前の記憶
国会議員や秘書らの迅速な対応がなければ、混乱がより長期化しかねない「危機一髪」の状況だった。国会の開会中だったことから、議員が地方ではなくソウルにいたことが大きかった。しかし、議員の緊急参集の素早さ、国会関係者や秘書らの議事堂内での動きは戒厳というものが何かということをよく知っているからこそだと感じた。
駆けつけた市民の中には「私たちは『あの時代』を知っているから」という人もいた。韓国は朝鮮戦争後、長い独裁軍事政権の時代があった。そこから市民が多くの血を流し、1987年に民主化を勝ち取った。今でも続く、韓国の人々の「政治は自分たちで変える」という強い意識はこうした歴史から来るものだ。
45年前とは大きく違い、今回の戒厳令では当日の状況が瞬時に世界に配信された。深夜にもかかわらず日本からも多くの反応があり、関心の高さに驚かされた。
一方、国会前に集まった市民を「プロ市民」と揶揄する投稿もあった。国会前には政治団体の人も、そうでない人も多くいた。そもそも韓国の人々には、何かしらの団体と関わりがある政治的に熱心な人が多い。「プロ市民」という言葉は日本的な考えのようにも思う。
本気じゃなかった軍隊
一方、今回、最悪の事態にならなかった背景には現場にいた軍が「本気」を出さなかったことも大きい。ある与党国会議員の男性秘書は塀を越えて、隙を見て議事堂内に入った。すでに議事堂周辺には兵士がいたが止めなかったという。男性秘書は「彼らもおかしいと感じていたのだと思う。バリケードがあったとはいえ兵士なら越えようと思えば越えられる」と振り返る。国会に到着した兵士の銃には実弾が入っていなかったとの証言も多くある。