四度目の拘束
「誰かが外であなたを待っています」
アフリカのある国の首都にあるホテル。2008年、野党の年次総会が開かれていた。支援者で総会の組織委員を務めていた男性―本稿ではパトリックと呼ぶ―は、他のスタッフから呼ばれて会場を出た。
その直後、路上にとめていた車からサングラスをかけた男数人が飛び出してきて、パトリックは車内に押し込まれた。車の窓ガラスは着色され、街行く人に中の様子はわからない。
「これでお前は終わりだ。二度と刑務所から出る機会はないだろう。家族とも会えない」
目隠しされ、手首が腫れるほどきつく手錠をかけられた。訊かれた問いに答えるが、殴られ、蹴られ、杖のような棒で足を叩かれた。
パトリックはそれまでにも3度、警察に拘束されていた。現大統領の強権的な独裁に反対し民主化を訴えるデモや集会を主導したこと、刑法の「怠惰と無秩序」という、どのようにでも適用できる「罪」が理由とされた。取り調べでは政治活動をやめるように強く言われた。
だが、今回の手荒な扱いは以前と違った。警察署に数時間留置され、別の場所に移送された。目隠しを外されると、窓も照明もなく小さな寒い部屋にいた。後でわかったが、連行されたのは悪名高い軍の「政治犯拷問施設」だった。
翌日、尋問が始まった。かけられた嫌疑は政府を転覆させる企て、すなわち「反逆罪」で、母国西部で活動する反政府組織とのつながりを追及された。
「おまえは情報の伝達役をしているだろう。誰と誰が協力しているのか」
その組織とはまったく関係がない。商取引で西部の農村地帯に出向く機会が多かったことから、ぬれぎぬを着せられたと思った。
尋問は午前10時ごろから夕方まで続き、シャツを脱がされて拷問を受けた。途中で昼食が出されたものの、顔が腫れ上がって食べられなかった。
その夜、思わぬ展開があった。知らない軍人が部屋を訪れ、鍵を開けて言った。
「建物の裏口から外に出て、塀を乗り越えると車が待機している。それに乗って逃げろ」
言われたとおり抜け出すと、軍用車両が止まっていた。軍服を着た男女3人と私服の運転手がいて乗り込んだ。1時間ほど走って別の車と合流、そこに元軍人X氏がいた。
X氏は父と同郷で付き合いが深く、2003年に父が他界した後も残された家族を気遣ってくれていた。拷問施設からの脱出は、すべてX氏の段取りだった。
「軍は君を軍事裁判にかけるつもりだ。だから私は助けた。首都は安全じゃない。できる限り遠くの町に逃げなさい。国外への脱出を手伝ってくれる人を手配する」
パトリックは乗ってきた車で100キロあまり離れた村に向かった。そこには父の友人だった神父がいて、教会に併設する修道院に身を隠した。

日本への出国
まもなく出国手続きに詳しいブローカーY氏が訪ねてきた。パトリックは、同胞が多く住む英国への渡航を望み、お金を払って手続きを依頼、まずパスポートを受け取った。ところが英国のビザは短期間で発給されないことがわかる。
そこでY氏は独断で日本のビザを取得した。パトリックは「日本は英語を話す国ではないし、誰も知っている人がいない」と不安を告げたが、最後は身の安全を考えて日本への出国を決めた。空港にはY氏も同行し係官から便宜を図ってもらうなど手助けしてくれた。
関西国際空港に到着したのは2008年10月。ビザは15日間しかなく、すぐに非正規滞在となり、翌年2月、東京入国管理局(現・東京出入国在留管理局、以下東京入管)に1回目の難民申請をした。日々の暮らしは家電の修理などの仕事で支えた。
妻から届いた手紙
安全を考えて、妻や親戚には一切連絡しなかった。
「私が逃げたからには、軍は必ず自宅に来て、どこにいるのかと口を割らせようとする。だから居場所は知らせなかった」
2010年9月、パトリックのもとに速達が届く。差出人の名前に心当たりはない。住所は隣国の郵便私書箱になっている。封を開くと長い英文の手紙が入っていた。妻リタ(仮名)の筆跡だ。書き出しには「あなたが生きていると聞いて本当によかった。神に感謝します」とあり、日本にいると知らせてくれたのはブローカーのY氏であること、夫が消息を絶った後、家族に何が起きたのかが丁寧につづられていた。
リタは当初、思いつく限りの場所を探し回ったものの消息がつかめず、「おそらく殺されたのだ」と自分を納得させたという。
「生活を維持しながら、毎日泣いていた。(かつての)記憶が薄れるまで……。何もかもがつらかった」。
そんなとき、軍の行動が追い打ちをかける。
「憲兵や軍人が毎日、家に来て、あなたの所在を尋ねた。私は『知らない』と言いつづけたが信じてもらえなかった。最後は15人の軍服を着た兵士が侵入してきて、『居場所を言わなければ、あらゆる方法で痛めつけてやる』と真顔で脅し、『3日間猶予を与えるから(軍が)必要とする情報をよこせ』と言われた。私の人生は終わると悟り、本当に難しい決断をした」
リタは幼い子ども3人を連れて首都を離れた。逃げる途中で訪ねた祖母の助言もあって、パトリックをかくまってくれた同じ神父を頼り、修道院に身を置いた。
リタの失踪を知った軍は自宅に踏み込む。部屋中をかき乱してパトリックが残した野党の関係書類や土地の権利証、子どもの成績表まで奪い、学校に押しかけて出席の有無を確かめた。リタは手紙で、パトリックの政治活動を手伝っていた弟が拘束されたことにも触れて、非難していた。
「あなたが家族みんなを、こんなにみじめな状態にしてしまったことを分かってほしい。幸せに暮らしていたのに、ビジネスもうまくいっていたし、子どもたちは国でも指折りの学校に通っていたのに……。子どもたちも私も日々やせていくように見える。自宅はさびれてしまった」
手紙は、「早くあなたから返事が届くことを待っています」と結ばれていた。同封された写真の一枚には3人の子どもが仲良く並び、一番幼い男の子は隣の兄と姉を見て無邪気な笑顔を見せている。もう一枚は荒れ果てた無人の我が家だ。パトリックは泣きながら何度も手紙を読み返し、写真の子どもたちに謝った。
「家族を裏切り、努力して母国で築いたものをすべて破壊し土の中に埋めてしまった……」。このとき、自分は存在してはいけなかったとさえ思ったという。
第一の新聞記事と謎の大使館関係者
2012年1月、母国の新聞にパトリックの実名入り記事が掲載された。見出しには「野党が政府の拷問と脅迫を告発」とあった。
本文では党の若手リーダーの発言が引用されていた。
「野党(政党の略称)は、政府の嫌がらせによってパトリックや〇〇(いずれも原文では実名)のような強力な活動家を失った」
記事はパトリックの弟にも言及し、「何人かの野党関係者は…反逆罪に直面している。その中には……パトリックの弟(実名)が含まれる」とあった。
パトリックにとっては政治的な迫害を受けたという難民性を証明するものでもあった。だが、この記事が出たのは1回目の難民申請の最終結果が出る直前で、提出はかなわず、パトリックの申請は不認定にされた。そして東京入管に7週間、収容された。
6日後、見知らぬ男がやって来た。昼ごろ、入管職員から「面会者が来ている」と伝えられた。きちんとした身なりの男がいた。過去に会った記憶はない。彼は「エディ」と名乗り、笑いながら英語で話しかけてきた。エディは途中からパトリックの出身民族が使う現地の言語に変えた。
「あなたは誰なのか?」
訪問の意図がわからず不審に思い、話を遮って尋ねた。するとエディはガラス越しにIDカードのようなものを見せた。
「私は大使館から来た。君がここに収容されたと聞いて来た」
「私から何を知りたいんだ!」。パトリックは政府関係者の来訪に憤り、面会を打ち切った。「なぜ、こんな人と面会させるのか」。入管職員にも抗議した。
来日後も大統領の退陣や民主化を訴える同胞の会合、デモに参加していた。「私はいまだに監視されている。日本でも決して安全ではない」。大きなショックを受けた。
来日した妻
手紙をきっかけに、Y氏を仲立ちにして妻リタを日本に呼ぶ準備を進めた。2012年9月、リタは子どもたちを母国の教会の施設に預けて来日した。
リタも難民申請したが、夫婦の間では残してきた子どもをどうするのか、言い争いが絶えなかった。特に気がかりだったのは写真で笑顔を見せていた幼い二男で、マラリアが原因で容態が悪化、医療水準の高い隣国で治療を受けさせられないかと考えた。病院に手紙で打診したところ入院を受け入れる旨の返事が届いた。
リタは自ら隣国に行って看病することを望んだ。だが、難民申請中の「特定活動」という在留資格では、隣国に渡って日本に戻る際に再入国許可が必要となる。病院からの手紙を持参して入管当局と掛けあったが「許可は出せない」と突き放された。
残された選択肢はリタが母国に戻ることだ。しかし、それは身の危険をともなう。パトリックは「行くな」と言いつづけた。夫婦仲は冷え込み、リタは何も告げずにパスポートを取得。難民申請も取り下げて、2016年12月、日本で生まれた二女と一緒に母国へ向かった。
その日、パトリックは帰宅して初めてリタの不在を知る。母国にいる彼女の姉と連絡を取ろうとするが応答がない。そして。
「リタは空港で拘束され、軍の施設に連れて行かれた」
母国から伝えられたのは、恐れていた事態だった。
第二の新聞記事
2017年3月、母国の新聞に「野党活動家の妻、行方不明に」と見出しが踊る記事が掲載された。「野党活動家」とはパトリックのことで、顔写真、実名入りだった。
「警察は8年前、国外に脱出したとされる野党(原文では政党の略称)の元活動家パトリック(実名、以下同)の妻リタの捜索を開始した。親族の警察への報告によると、リタは昨年12月、4~5年間滞在して働いていたアジアの国から帰国したところ行方不明になった。警察は、リタが帰国した際、プラド(トヨタのランドクルーザー)に乗った見知らぬ者たちに行く手を阻まれたと報告を受けて捜査を進めている。匿名の目撃者によると、リタは銃を突きつけられて車に押し込まれ、幼児と(出迎えに来た)姉と一緒に、どこかに連れ去られたという。その後、幼児と姉は、未完成のまま放置されたビルの中で意識を失っているところを発見された。事件によって彼女の家族はパニックを引き起こしている」
パトリックの身に起きたこと、それはまさに「難民の現実」だった。
来日後、パトリックは3回にわたって東京入管に難民認定を申請していた。しかし、いずれも不認定とされたため、国を相手取り裁判を起こすこととした。
「同姓同名」「自作自演」
「法務大臣の原告に対する難民の認定をしない処分を取り消す」――2024年10月、東京地裁(品田幸男裁判長)は、パトリック勝訴の判決を言い渡した。政治的な迫害による難民であるとのパトリックの主張は、二つの新聞記事と妻の手紙で客観的に裏付けられていると判断した。
証拠は同じなのに、入管とは正反対の結論となった。
いったい国側は裁判でどんな主張をしたのか。
[母国での政治活動]
原告の供述には客観的な裏付けがないうえ、野党における自身の立場を合理的な理由なく変遷させており、信用性に乏しい。供述を前提としても、野党のサポーターとしての政治活動は勧誘・啓蒙活動や交通費の援助、党員をトラックで移送する手伝いにとどまり、期間もわずか2年。政府から殊更注視されるほどの活動をしていたとは言えない。
[母国での拘束]
裏付ける客観的な証拠はなく、拘束場所・理由などの詳細について、合理的な理由なく供述を繰り返し変遷させるなどしており、信用性に欠ける。
[出国の経緯]
野党のサポーターでもあるXが、政権側の支配下にある収容施設から原告を脱走させることができるのか疑わしい。
「供述の変遷」や「政府から殊更注視されていない」という主張は、難民性を否定する場合に入管当局が使う決まり文句だ。
これに対し東京地裁判決は、「難民該当性に関する中核的事実に関する(原告の)供述については、(最初の)難民認定手続きの際に作成した手書きの陳述書から(法廷での)本人尋問に至るまで一貫しており、内容も具体的で、母国の情勢とも整合している」として「信用できる」と述べた。
さらに、国側は大使館関係者の訪問を過小評価した。
[エディの訪問]
面会に訪れた大使館関係者は調理師にすぎず、やりとりも「私は大使館から来た。君がここに収容されたと聞いて来た」にとどまり、回数も1回であることから、政府が原告を反政府活動家とみていると裏付けるものではない。
国側は東京入管への届け出から、エディが大使館に勤務する調理師と明らかにした。そのエディは激しく怒ったパトリックから追い返されているので2回、3回と来るはずはない。国側の主張に対して、判決は大使館関係者の来訪は「恐怖」と認めた。
驚きを禁じ得ないのは、判決が重視した二つの新聞記事についての国側主張だ。
[第一の新聞記事]
出国から3年以上経過した後のもので、原告と個人的な関係がない野党の若手リーダーが「柱だった強力な活動家」と言及していることからすると、同姓同名の別人の可能性が高い。弟は、野党の人員の移送を手伝う程度の活動をしていたにすぎないうえ、記事の掲載当時、(ベルギーに)出国していたことからすれば、反逆罪の容疑に直面していたとは言えない。同姓同名の別人の可能性が高い。
[第二の新聞記事]
タブロイド紙が匿名希望の目撃者の供述を基に作成したにとどまるうえ、掲載時期が妻の拘束から4カ月も後であること、内容も拘束の不当性を問うものではなく、野党サポーターにすぎない原告の顔写真の掲載からすると、原告または関係者が難民認定手続きを有利にすることを企図して事実に反する内容を掲載させた可能性がある。
新聞は発生したのがいつであっても、ニュース性があれば、事実が確認できた時点で記事にする。「3年以上経過した後」や「4カ月も後」などということは何の意味もない。しかし、国側は「同姓同名の別人」、難民認定を有利にするために記事を「自作自演」した可能性があると主張した。判決はこうした国の主張を、「具体的な事実の指摘を伴わない単なる憶測」と退けた。
「面識のない軍人をなぜ信じたのか?」
パトリックの主張に疑念があると裁判官に印象付けようとする国側の意図は、法廷での本人尋問でも垣間見えた。
国側代理人「あなたは身柄拘束を4回と主張されていて、入管の手続きでも、それが本当のことなのかずっと疑われているわけですよね。そのことは認識していますか?」
パトリック「私はいままでの手続きで、自分のすべきことをしてまいりました。最善を尽くして、入管に対し、そしてきょうここで裁判所に対し説明しております」
国側代理人「あなたの陳述書には4回目の身柄拘束だけ日付が書かれていないんですけれども、年次総会だったら特定できるんじゃないですか?」
パトリック「入管のインタビューで、『例えばいつだったんですか』と必ず聞かれました。私が答えなかったのは、間違ったことを言いたくなかったからです。(略)4回目の拘束があって以来、非常な苦しみを味わいましたので、その結果、実際に起こったことなのに忘れてしまっていることがありました。自分はうろ覚えのこと、よく覚えていないことを入管に言うのは間違いになりかねないので、具体的な日にちは言わなかったのです」
拷問施設からの逃走に関しても疑問をぶつける。
国側代理人「あなたは、面識のない軍人の言うことが、なぜ信用できると思ったのですか?」
パトリック「人が自分の生死を分けるような状況に面している時、ここで命を失ってしまうかもしれないというような、そうした逼迫した状態にある時、可能な限り生き延びようとするはずです。私もチャンスがあれば、それにすがる思いでした。今いる場所が非常に危険だということはわかっていました。裏口から出たらという言葉で、このまま脱出して、それで命を落とすことになるのか、なっても仕方ないか、このままここで死んでしまうか、つまり殺されてしまうか、どっちを選ぶかと言えば、この最初のチャンスに懸けるはずです。だから信じました」
疑念どころか、まさに体験した人でなければ語れない言葉が返ってきた。
判決は、「いくつかの点で客観的裏付けがないことは、難民が迫害を逃れて国籍国を離れている性質上やむを得ない」「供述の細部で見られる食い違いや変遷も、通訳を介して一問一答を基本に口頭で供述したことに加え、難民の性質上、客観的な裏付けが乏しい状況下で記憶を喚起しようとしたことを考慮すればやむを得ない」と理解を示し、「原告は難民であり、帰国すれば迫害を受ける恐れがある」と結論づけた。
国は控訴せず判決は確定、パトリックは難民と認定された。30代で来日し、最初に難民申請をしてから16年がたっていた。
入管は、なぜ彼を難民として認めることを拒みつづけたのか。次回、詳述する。 (難民とは誰か 入管の誤断(下)──保護すべき者を保護しない人びと につづく)







-1024x678.jpg)



