特集「大阪デモクラシー 維新政治の先へ」
「維新」とはなんだったのだろうか。
「自民党・維新の会」として出発したこの政党、あるいは運動については、すでに多くの書物や論文が書かれ、少なくとも事実という点について、つけ加えるべきものは、もはやそう多くはない。しかも先の総選挙において比例区で3割も得票を失い、維新という現象が終わりを迎えつつあることもまた──自公への逆風を受け、大阪府の小選挙区を全勝したことに子どものようにはしゃぐ関西のテレビ局とその周辺の人びとをのぞけば──いまや誰の目にも明らかになりつつある。にもかかわらず、あらためてこうした文章が書かれねばならないのは、おそらくは維新なるものについて、なにかしら十分に理解できていないと多くの人が考えているということだろう。
だが、大阪府南部の政令市の商店街の近くの集合住宅に住み、そこからさほど離れていない職場に通う、私の生活の実感からすると、「維新」は生活の一部でしかない。つまり現実そのものであり、なにかを考えるにあたっての出発点であって、解き明かすべき謎のようなものではない。
維新が目の前にそれとして現れた瞬間もはっきり覚えている。2011年の統一地方選挙だった。告示日であったか、それとも事実上の運動が始まったときであったか。大阪維新の会、そして立候補者の名前と顔写真が印刷されたポスターが町のあちこちにまさに一夜にして登場した。しかるべき場所に、しかるべき数のポスター。金もあるし、組織もある。これは野党の仕事ではない。そんなふうに考えたことを覚えている。
維新の名前はすでに関西メディアでくり返し連呼されていた。だがテレビ局や新聞の関心、ほとんど熱狂といってもよいそれは、橋下徹という元タレントに向けられていた。それはいかにも関西のテレビ局の社員の好みそうな、東京から天降ってきた、関西のテレビのよくあるコンテンツのひとつでしかなかった。
だがこのとき一夜にして目の前に登場した「大阪維新の会」は、資金と動員力を有するしっかりとした組織であることを私たちに告げていた。注意深くみてゆくと、少なくともその地域では、何軒かの不動産屋の、とりわけ目立つところにそのポスターが貼られていたことにも気がついた。つまり私の目の前にいた維新は、現象としては地域の自民党的なもの、あるいは地方議会であることを考えれば、いわゆる保守系無所属であったりするような、そうした候補者たちからなる集団であり、またそれ以外のものではなかった。その出自を考えれば当然のことではあるのだが。
湾岸開発というテーマの登場
よく知られているように維新とマスメディア、とりわけ関西のテレビ局とはほとんど一体のものである。コンテンツとしての維新は、そのため、誕生以前から、その一挙手一投足が「報道」されてもきた。維新はつねに過剰な露出にさらされ、そこに謎のようなものは残りようもない。その誕生の日付もはっきりしている。きっかけは2009年3月、すでに府知事となっていた橋下徹が提案していたWTC(ワールド・トレード・センター)ビルへの府庁移転案だった。WTCビルとはATC(アジア太平洋センター)ビルとともにバブル直前の大阪市による湾岸開発計画、テクノポート大阪と名づけられたその計画の中心となるはずの施設であった。このことの意味を考えるために、少しばかり時間をさかのぼってみよう。