【連載】Sounds of the World(第6回)ジルベルト・ジル

石田昌隆(フォトグラファー)
2024/11/05
ジルベルト・ジル(2024年9月27日)©︎石田昌隆

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  60年代からブラジル音楽を牽引している巨匠、ジルベルト・ジルが「Aquele Abraço Japan Tour 2024」で16年ぶりに来日した。9月27日に、めぐろパーシモンホールで開催されたライヴを撮影。御年82歳である。ツアー・タイトルは、1969年初頭に獄中で作曲した曲〈Aquele Abraço〉に由来している。

 ブラジルは、1964年に軍事クーデターが起こり、85年に民政移管されるまで軍事政権が続いた。なかでも、67年3月から69年10月まで政権を握っていたコスタ・エ・シルヴァ(Arthur da Costa e Silva)大統領の時代は民衆への弾圧がひときわ苛烈だった。68年3月28日、食品価格の値上がりに抗議する行動に参加していたエドソン・ルイス(Edson Luís)という学生がリオデジャネイロの軍警察に射殺された。これに対して、リオデジャネイロで大規模な抗議活動が行なわれて、デモ行進に10万人集まった。68年6月26日には、極左過激派、VPR(人民革命前衛グループ)がサンパウロの軍の施設で自動車爆弾を爆発させて兵士を殺害する事件が起こった。これらの動きに対して、68年12月13日、コスタ・エ・シルヴァはブラジルの軍事政権史上、最悪の法律と言われている軍政令第5条(AI‐5)を制定して、デモなど集会の禁止、政治犯に対する人身保護令の全面不適用、軍秘密警察による政治犯拷問などの暴力行為が容認されるようになった。

 ジルベルト・ジルは、ブラジル北東部、バイーア州サルヴァドールで1942年に生まれた。ブラジルは南半球なので北に行くほど熱帯の雰囲気が顕わになってきて、独自のアフロ・ブラジル文化が息づいている。

 67年10月21日、テレビで放映された第3回ブラジル・ポピュラー音楽祭の決勝戦で、ジルベルト・ジルが〈Domingo no Parque〉を歌い、同郷のカエターノ・ヴェローゾが〈Alegria, Alegria〉を歌った。このときの映像を見ると、〈Domingo no Parque〉の演奏に、ブラジルにおける黒人奴隷の歴史と係わりがある格闘技でありバイーアに息づく文化でもあるカポエイラで使用される打弦楽器、ビリンバウが使われていたり、曲全体のアンサンブルがビートルズの『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(67年5月)の影響を受けてサイケデリックなロック寄りになっていたりと革新的な内容だったことがわかる。このときのジルベルト・ジルとカエターノ・ヴェローゾの演奏が発端となって、トロピカリアという音楽を中心とした芸術運動が起こった。この二人に加えて、ムタンチス、ナラ・レオン、ガル・コスタ、トン・ゼーらが参加したコラボレーション・アルバム『Tropicália ou Panis et Circencis』(68年7月)はトロピカリアという運動の時代を象徴している。

 トロピカリアは、軍政に対する抵抗という方向性も持っていた。マルセロ・マシャド(Marcelo Machado)監督によるドキュメンタリー『Tropicália』(2012年)には、カエターノ・ヴェローゾの〈Coração Materno〉(69年)を流しながら、エドソン・ルイスがリオデジャネイロの軍警察に射殺されたことに対する民衆による大規模な抗議活動の当時の映像が出てきて、その群衆の中にいるジルベルト・ジルとカエターノ・ヴェローゾが写っている写真も出てきた。そして軍政令第5条が制定された直後、68年12月27日にジルベルト・ジルとカエターノ・ヴェローゾは逮捕、投獄された。逮捕の理由は、二人がリオデジャネイロのスカタ・ナイトクラブでコンサートを行なったとき国歌を軽視したとの噂と、若者の反乱を扇動したというものだった。二人はリオデジャネイロのチジュカ地区にある陸軍警察兵舎の小さな独房で一週間を過ごした後、レアレンゴ地区にある陸軍兵舎を含む施設に移され2カ月間監禁された。その間に、ジルベルト・ジルは兵士に借りたギターで4曲作曲した。そのうちの一曲がサンバのビートの曲〈Aquele Abraço〉だった。リオデジャネイロで監禁されていたとき、二人は影響力があるので、軍は国外退去するように要求した。そしてバイーア州サルヴァドールの自宅に戻ってさらに2カ月間軟禁された。歌詞はサルヴァドールに向かう飛行機の中で書いたもので、「リオデジャネイロは相変わらず美しい」「こんにちは、レアレンゴ」「こんにちは、フラメンゴ・ファン(フラメンゴは人気のサッカーチーム。ジルベルト・ジルはフルミネンセのファン)」というあたりさわりのない言葉が並んでいるが、これは監禁されていたとき看守たちが喋っていた言葉を繫げたものであり、ブラジルとの別れを意識したものだった。〈Aquele Abraço〉は軟禁が解かれた直後に録音したアルバム『Gilberto Gil』(69年8月)に収録された。

 ジルベルト・ジルとカエターノ・ヴェローゾは亡命する資金を集めるために、69年7月20日と21日、サルヴァドールのカストロ・アウベス劇場で2回の公演を行なうことが許可された。その後間もなく、二人はロンドンに亡命した。当時、ポルトガルとスペインは酷い独裁政権下にあり、亡命先の候補にはならなかった。

 ロンドンに亡命した二人は、当時の最新のロック、ビートルズの『Abbey Road』(69年9月)、ローリング・ストーンズの『Let It Bleed』(69年12月)などに刺激を受けた。70年のワイト島音楽祭に出演したり、ロンドンでレコードを制作したりと音楽活動を継続していた。『Gilberto Gil』(71年。同タイトルで全く別のアルバムを68年と69年にも出していた)は、全曲英語詞の曲で、ブルースやR &Bの影響が感じられる。

 そして72年、ブラジルの軍事政権はメディシ(Emilio Garrastazu Médici)大統領の時代になっていたが、ブラジルに帰国することが受け入れられた。ジルベルト・ジルが帰国後に作った『Expresso 2222』(72年)に収録してある〈Back in Bahia〉は代表曲のひとつだ。マルセロ・マシャド監督の『Tropicália』に72年のバイーアの風景と絡めて撮影されたサイケデリックなスタジオ・ライヴの映像が出てくる。

 ジルベルト・ジルはレゲエに接近した時代も素晴らしい。ボブ・マーリーの名曲をポルトガル語の独自の歌詞でカヴァーした〈Não Chores Mais (No Woman, No Cry)〉(79年)は印象深い。歌詞で直接言及しているわけではないが、軍事政権末期のブラジルでは、無実の政治犯の釈放と亡命者の帰国を訴える機運とが連動した曲だと受け止められて大ヒットした。

 ジルベルト・ジルの音楽は、バイーア州よりさらに北に位置するペルナンブーコ州レシーフェに生まれたアコーデオン奏者、ルイス・ゴンザーガの影響が原点にあり、ジョアン・ジルベルトの影響でギターを弾きはじめ、ビートルズの影響でサイケデリックなロックに近づいた。以後さまざまな音楽を消化吸収しながら進化しつづけている。

 ブラジルが左派の労働者党政権となったルーラ(Luíz Inácio Lula Da Silva)大統領の時代、03年から08年まで、ジルベルト・ジルは文化大臣に就任していた。その間、ミュージシャンとして活動する時間が限られていたが、文化大臣を辞してから再び音楽活動に注力していった。「Discogs」を見ると、アルバムだけで現在まで74枚出ている。初来日公演を行なったのは86年。ぼくが初めて撮影したのは92年の来日のとき。前回08年の来日公演は観ていないが、そのとき66歳だったジルベルト・ジルがパワフルなライヴをやったと多くの人が感嘆していた。ところがそれ以来の来日公演となる今回は82歳であるにもかかわらず、後半は立ってエレキギターを弾きながらステージを動いていたのだった。〈Aquele Abraço〉はもちろんやったし、軍事政権の時代に亡命を余儀なくされた後、やっと帰国できたことを昨日のことのように語ってから〈Back in Bahia〉をやり、〈Não Chores Mais (No Woman, No Cry)〉もやった。

 ジルベルト・ジルは64年に初めてのソロ・コンサートを行なった。それから60年、第一線を走りつづけている。まさにリヴィング・レジェンドそのものであり、奏でる音楽の向こう側にブラジルの歴史が立ち上がってくるようだった。

石田昌隆

1958年生まれ。フォトグラファー。新刊『ストラグル Reggae meets Punk in the UK』が出ました。1982年にニューヨークでザ・クラッシュを撮影した写真に始まり、2023年にひとりでカメラ機材やテントや寝袋を持って飛行機に乗り、ロンドンと音楽フェスが行なわれたイースト・サセックス州を訪ねたときまで41年間の記録です。

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