南米コロンビアで、中南米最大と言われた反政府左翼ゲリラ組織「コロンビア革命軍(通称FARC)」と政府の間で和平合意が成立してから、およそ8年が経過した。
1960年代から続いた内戦では、少なくとも12万人以上が行方不明となったとされる。その中には、政府軍兵士、左翼ゲリラ、反左翼ゲリラの民兵、政府軍にゲリラ扱いされた市民など、あらゆる人間が含まれている。
現在も行方不明のままとなっている彼らの捜索のために、2016年12月に議会で承認された和平合意にもとづき設立された国家機関、「失踪者捜索ユニット(UBPD)」が奔走する。
UBPDは、全国28カ所に事務所を置き、政治社会学、犯罪学、法医人類学、地理学、ジャーナリズムなど、さまざまな知見を持つスタッフ計520名で構成される組織だ。その任務は、失踪者の捜索・発見と、失踪者と思われる遺骨の身元特定を通して、すべての失踪者を家族のもとへ送り届けること。UBPD代表のルスジャネット・フォレーロは言う。
「これまで愛する者を自力で捜索してきた家族の痛みや苦しみを、少しでも早く和らげるために、UBPDが誕生しました。内戦中の立場に関係なく、先入観や偏見抜きで、どんな失踪者も捜索するのです」
無縁墓地
2024年9月下旬、UBPDの法医人類学チームは、首都ボゴタの西に位置するトリマ県の県都、イバゲの町外れにある無縁墓地に集まっていた。そこで納骨室2カ所を5日間かけて調査し、政府軍に殺害されたFARC戦闘員3名の遺骨を見つけるためだ。幅4メートルほどの塀のような構造物の両側に並ぶ納骨室の扉の大半には、遺体が運ばれてきた年月日と順番を示す数字しか書かれていない。誰がそこに眠っているかは、納骨時期から予測し、遺骨を鑑定して確認するしかない。
朝8時。調査責任者の法医人類学者フアンカルロス・ベナビデスとチームメンバー3名が、今回開ける2つの納骨室の裏手にテントを設置し、簡易テーブルを何台か並べていく。鑑定作業場の設営だ。その間にも、捜索対象となっている失踪者の遺族やその友人、和平合意の遂行状況を確認する国連関係者らが集まってくる。
それからまもなく、UBPDの地域コーディネーターの呼びかけにより、居合わせた全員が、納骨室の脇の広場で手を取り合って輪になった。
「作業を始める前に、みなさんの間に調和の空気を生み出したいと思います」
香が焚かれるなか、全員で「歓喜の歌」をうたい、最後に近くの者同士、抱擁を交わす。
実は、この調査に立ち会う失踪者の遺族2組は、立場がまったく異なる。1組は、22歳でFARCに入隊を強要されて戦死した男性の妻と娘で、もう1組は、FARC戦闘員で政府軍の捕虜になった末に殺害された兄を探す、自身も元FARC戦闘員である弟と元FARCの仲間だ。
法医人類学者のフアンカルロスが、遺族にこう語りかける。
「私たちは今日、みなさんのためにここにいます。遺骨を見つけ出し、(失踪後の)長い間、みなさんが抱いてきた心の痛みを、少しでも癒すことができればと思います」
法医人類学チームは、まず1つ目の納骨室の扉を、データ記録用の写真に収めたうえで鑿とハンマーでこじ開け、納められているビニールの遺骨袋14個を、1つずつ運び出した。袋は作業テーブルに並べられ、番号札が付けられたうえで順に開封され、取り出された骨が別のテーブルに置かれる。チームは、その骨や歯などを鑑定し、性別や年齢、身長、死亡理由などを調べていく。それらのデータと、検察での検死の記録や歯科の記録、遺族からの聞き取りなどからわかった特徴と照らし合わせて、身元の特定を目指す。ほぼ特定された場合は、首都にある法医学研究所へ持ち帰り、さらにDNA鑑定などを行ない、身元を確定する。
1日目の作業は成果が上がらないまま終了し、迎えた2日目。ボゴタから派遣された検察官が率いる検察法医人類学チームが合流し、UBPDと協同で鑑定作業にあたる。2つ目の納骨室が開けられ、そこから出された遺骨袋も前日の分と合わせて調査される。
法医人類学チームの作業場は、立ち入り禁止のテープで囲まれているため、遺族やその付き添いの人々は、少し離れたところから鑑定の様子を見つめている。運び出された袋は計29あり、すべて鑑定し終えるまでには数日かかる。探している遺骨は今日見つかるかもしれないし、明日、明後日かもしれない。見つからない可能性もある。
真実を知る
「それは私が16歳、娘はまだ1歳だったクリスマスシーズンのある夜のことでした。熱を出した娘の看病をしている私を残し、(夫の)オルランドは村のパーティに出かけたんです。翌朝、私が会場へ探しに行った時には、もう姿がありませんでした」
14歳で結婚した相手がそのわずか2年後に失踪したビルへリーナ(39歳)は、失踪時の様子を、そう語る。FARCの支配地域だったトリマ県南部の農村地帯のパーティ会場からは、オルランドを含む5人の若い農民がゲリラに連れ去られた。妻は、検察に捜索願を出して夫を探しつづけたが、行方が掴めないまま月日は流れ、死亡の知らせもなく、最後は「どこかで生きているものだと思っていました」と言う。ところが、今回の調査の数カ月前、検察から「遺骨確認の際にDNAを照合するために、血液サンプルを採取したい」との連絡があり、その死を知ることになる。