【連載】台湾・移行期正義の練習帳(番外編2)誰の「事件」だったのか──牡丹社事件、いくつもの記憶を抱きしめる

栖来ひかり(文筆家)
2026/10/08
日本軍とパイワンの戦士たちが激突した「石門古戦場」。写真はすべて提供筆者。

これまでの記事はこちら(連載:台湾・麗しの島〈ふぉるもさ〉だより)


牡丹社事件――語りを奪われた記憶

 「牡丹社(ぼたんしゃ)事件」と聞いて、すぐに内容を思い浮かべられる日本の読者は多くないだろう。だが、1874年の「台湾出兵」といえば、高校の日本史で習った記憶があるかもしれない。琉球漂流民が台湾で現地住民に殺害されたことへの報復、もしくは征韓論政変後の不平士族対策などなど――。日本では、明治政府の外交史や琉球併合の前史として、このように説明されてきた出来事だ。

 しかし「台湾出兵」という名称の中心に置かれるのは、「日本」という国家である。反対に、台湾で広く使われる「牡丹社事件」という呼び名も、1871年の殺害を牡丹社だけの行為だったかのように印象づけるだろう。だがじつにこの一連の事件は、宮古島の漂流民、台湾原住民族パイワンの複数の集落、救助した漢人住民、琉球王国、清朝、日本がそれぞれ異なる立場で関わり、東アジア史の重大な転換点となった。そんな近代的な国境と「国民国家」のあり方を決定づけた分水嶺の下には、語ることを「国家」に奪われた多くの記憶が埋もれている。これは誰のどんな「事件」だったのだろうか。

 舞台は、台湾最南端に近い屏東県牡丹郷。左右に聳える岩山が門のように狭まり、眼前に迫りくる。長い歳月と共に岩肌を侵食した水の流れは今も足もとを流れ、ときおり吹く熱帯の風が、かつてこの場所で起こった凄惨な記憶の霧を運んでくるかのようだ。

 西郷隆盛の実弟であり「小西郷」と呼ばれた西郷従道(じゅうどう)率いる日本軍は、長崎を出港して台湾南部・恒春半島の西側から上陸し、川づたいに上流へと向かって、ここ「石門」でパイワンの戦士らと激突した。領袖であったアルク父子はじめ有力者たちは戦死し、日本軍は牡丹社や高士仏(クスクス)社といった集落を襲撃、家屋に火を放った。日本側の記録では戦死者12人、マラリアなどによる病死者は561人。パイワン側の死傷者の数は、記録がなく、わからない。台湾原住民族は文字で記録を残すことをしなかった。ただ、このためにおびただしい血が流れたことは口承で集落に伝わっている。

牡丹郷の上から見渡す恒春半島の東部。奥に見えるのが遭難した宮古島民らが上陸した八瑶湾。(提供筆者)

 ここにいたるまでの経過、そして後に起こった一連の出来事はまとめて「牡丹社事件」と呼ばれる。とはいえ、この事件が台湾の重要な地方史というだけでなく、現在の台湾、そして沖縄や先島諸島の歴史にも深く関わっていることが、広く知られているとは言い難い。さらには、事件にまつわる史料も解釈も、いまだ揺れ動いている。

何が起きたか――双方の証言

 この歴史は二つの局面に分けて考える必要がある。発端は1871年の「八瑤湾(はちようわん)事件」である。琉球王国の宮古島から首里へ年貢を運んだ船が、帰路に暴風雨に遭い、台湾南東部へ漂着した。乗船者69人のうち3人が海で亡くなり、66人が上陸する。その後54人が殺害され、1二人は楊友旺ら地元住民に保護され、台湾府、福州を経て宮古島へ戻った。

 生還者の1人、島袋亀は、事件から半世紀ほど後に体験を語っている。聞き書きによれば、一行は山中でパイワン族の人びとから水や食事、寝場所を与えられたが、言葉が通じないことへの恐怖から黙ってその場を離れた。追跡を受け、多くの仲間が殺された。遭難者側の切迫した恐怖を伝える重要な証言である一方で、事件直後の記録ではなく、長い時間を経て語られた記憶でもあることは注意を要する。

 パイワン側の口承に耳を傾けると、同じ場面が別の意味を帯びる。山中において貴重な水や食料を差し出し、集落に迎え入れ保護することは、保護と友好関係の成立を意味した。ところが、客人たちは説明なく立ち去った。集落の場所を外部へ知らせるスパイではないかという疑念、限られた食料を大人数に分け与えるための負担。漂流民の救助をめぐる周辺住民との利害も加わり、複数の緊張が重なった。

 だからといって54人の殺害が正当化されるわけではないが、「先住民が無抵抗の漂流民を襲った」という説明だけでは何が起きたのかを本当に理解することは難しい。そして、この事件に関わったパイワンの子孫たちは、加害者であると当時に日本の「台湾出兵」の被害者でもあるという複雑な感情に、150年のあいだ苦しめられてきた。

『青海原の先』――複雑な背景をたどる「和解」の練習

 この複雑さに向き合うのが、ショーン・フー監督のドキュメンタリー映画『青海原の先――牡丹と琉球の悲歌』(原題『海殤――牡丹與琉球悲歌』、2025)である。宮古島側に伝わる、「人を喰う」という台湾の「大耳人」伝説への恐怖と、牡丹郷に残る口承の双方をたどり、研究者や子孫の証言、再現映像を重ねながら、文化の違いだけでなく、この出来事を取り巻く防衛や資源をめぐる様々な条件を描き出した。食い違う証言をどちらか一方に統合することなく、登場する人物たちそれぞれにやわらかく寄り添いながらも、等しい距離感を保とうとする。映画が用いたその方法自体が、まるで、「和解」のための練習を何度も繰り返しているように見える。

 映画が最終的に到達するのは、国際舞台に「デビュー」したばかりの明治政府が、1871年の悲劇を東アジアの国際政治に利用したことだ。当時の琉球王国は清朝の冊封を受ける一方で、1609年以来、薩摩藩の支配下にも置かれていた。日本政府は1872年に琉球国を「琉球藩」とし、宮古島の犠牲者を日本の「属民」と位置づける。清朝側が台湾先住民族を「化外」と表現したことも、清の統治責任が及ばない地域と日本は解釈し、1874年の派兵を正当化した。明治政府による最初の本格的な海外派兵であった。

 同年10月、日清両国は北京専約を結んだ。清朝は日本の出兵を「自国民を守るための義挙」とする文言を受け入れ、日本軍は撤退した。ただし、清朝がこの条約で琉球を正式に日本領と認めたわけではなかったし、琉球王国も反発した。しかし日本はその文言を、琉球人が日本の「属民」と清朝も認めた証拠として「琉球処分」へ進んだ。これにより、約450年続いた琉球王国は「沖縄県」に強制的に統合されて消滅した一方で、清朝も台湾統治の重要性を再認識し、道路建設や行政整備を通じて原住民族の領域への統治を強めていった。宮古島民の死は「帝国・日本」の領土拡張の礎石として利用され、パイワンは日本から、また清国からと近代国家の暴力に蹂躙され、琉球王国は国そのものを失ったのである。

両者の交流と閉ざされた記憶を捉え直す試み

 殺害された54人の遺体を集めて埋葬し、生還者をかくまったのは、楊友旺、林阿九ら周辺の漢人住民だった。1874年、日本側は遺骨を現在の車城郷統埔へ改葬し、「大日本琉球藩民五十四名墓」と刻んだ碑を建てた。「大日本」の文字は、死者を悼むと同時に、琉球が日本に属することを示す政治的な印でもあった。1982年の改修時にはこの文字が消され、屏東県の指定遺跡に登録された2011年に復元された。現在も、地元のひとのみならず、日本からお参りする人も絶えない。

屏東県の車城郷統埔にある「大日本琉球藩民五十四名墓」。(提供筆者)

 2005年以降、牡丹郷と宮古島のあいだでは、子孫同士の訪問、慰霊祭、研究交流が重ねられてきた。2007年には牡丹郷に「愛と平和」の記念碑が建てられ、宮古島にレプリカが贈られた。牡丹郷から宮古へ、宮古から牡丹郷へ、犠牲者の子孫同士の交流や慰霊祭、記念碑の設立、シンポジウムが相次いで開かれ、宮古島側の遺族と牡丹郷の関係者が同じ壇上で「琉球・宮古島の視点」と「パイワンの視点」をそれぞれ語り合う場も設けられた。

 しかし、これまで作り上げられてきたストーリーから逃れ、異なる立場からの視点を両立させることは容易ではない。歴史上の加害と被害の関係はどのように和解を目ざすのか? 牡丹社事件の子孫らを通して追いかけた平野久美子のノンフィクション『マブイの行方』(集広舎、2019)は、その複雑さと難しさに迫っている。

 私も数年前、台湾原住民族文学研究の第一人者である下村作次郎さんの一行にご一緒し、牡丹社事件にまつわる場所を訪れたことがある。映画にも出てきた牡丹郷の郷土史家で、パイワンの古英勇(グインヨン)さんが案内してくれた。古さんの話のなかでとりわけ、集落の年長者が事件を長いあいだ語りたがらなかったという話が心に残った。仲間を殺され村を焼かれた痛みに加え、「琉球人を殺した野蛮な牡丹社」という像が教科書や社会のなかで繰り返され、地域への偏見を生んできたという状況は、霧社のことも思い出させた。彼らの先祖らが沈黙を守ったのは、忘れてしまったからでは決してなかった。尊厳を守るため、記憶に蓋をしなければ生きられない時間もある。

牡丹郷の郷土史家、古英勇さん。「日本刀」は牡丹社事件のときのものだと集落に伝わるが、真偽は不明である。(提供筆者)

 こうした日本や漢人の歴史書からこぼれた声を拾い上げる試みとして、台湾文学においては、現地の原住民側の視点や文化や海洋史観を交えて立体的に捉え直した小説『暗礁』(パタイ著、魚住悦子訳、草風館、2018年)が上梓された。台湾原住民族プユマでもある著者のパタイはこの作品の目的について、この事件のことを多くの人が話しやすくなるように願って書いたと語っている。もう語ってもいいのだと、多くの当事者が気づくこと。これは移行期正義を扱う文化表象の最大の効用といっても良いかもしれない。

海を渡った遺骨とその返還式

 しかし、歴史を掘り起こすことは傷を癒やすだけではない。古いかさぶたが引き剥がされて新たな傷口がふたたび血を流すこともある。

 1874年に戦死したパイワンの戦士4人の頭骨が、英国エディンバラ大学に残されていることが判明したのも、そうしたひとつだろう。植民地主義の時代、欧米の大学や博物館は各地から先住民族の遺骨を集め、「人種」を分類する研究資料として扱った。当時のエディンバラ大学は世界でも指折りの外科・解剖学分野の研究機関であり、世界中の先住民の遺骨を収集していた。お雇い外国人を抱えて近代化に邁進していた日本は、世界の研究者たちが遺骨を交換し収集する東アジアの拠点のひとつとなっていたのである。パイワン戦士の遺骨は日本兵によって戦利品として持ち去られ、従軍していた測量技師のアメリカ人、ジェームズ・ワッソンなど幾人もの研究者の手を経ててエディンバラに渡った(毎日新聞/2023年12月9日、高橋咲子)。

 2023年11月3日、台湾からの出席者の立ち合いのもと、エディンバラ大学で遺骨の返還式が行なわれた。台湾側からはパイワンの霊媒師も呼ばれ、伝統的な供物と共に口寄せが行なわれ、4人の頭骨がみな「家に帰りたい」と応えたという。

 遺骨は翌々日に飛行機で台湾に到着したものの、国立台湾史前文化博物館に一時的に置かれたまま、未だ故郷の地を踏むことはできていない。故郷での再埋葬を含め、最終的にどのように祖先を迎えるのかには、関係する集落の合意と儀礼の検討が必要となる。

 150年という時間は、すべての声を聞き終えるには短すぎることを、牡丹社事件をめぐる現在進行形のあらゆることが教えてくれる。「和解」とは忘れることではなく、いくつもの痛みをいくつもの記憶のまま抱きしめる方法を、子孫や関係者のみならず、多くのひとびとが関わりを持ちながら探し続けることなのかもしれない。

栖来ひかり

(すみき・ひかり)文筆家。1976年生まれ、山口県出身。京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。著書に『台湾と山口をつなぐ旅』(西日本出版社)、『時をかける台湾Y字路』(図書出版ヘウレーカ)、『日台万華鏡』(書肆侃侃房)など。

2026年11月号(最新号)

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