【書評】『「親日/反日」を越える韓国歴史論争 英雄にも悪党にもなれない私たちへ』

加藤直樹(ノンフィクション作家)
2026/08/05
Front cover of a Japanese book about Korean history debates, with beige background, vertical black text, and a bold red title in the center; bottom area features blue and orange blurb blocks.

「普通の人」と歴史の責任

 本書のテーマは、直接には日本植民地時代の対日協力についての考察である。だが、その射程は長く、歴史的犯罪をどう精算するか、さらには歴史から何を受け取るべきなのかという世界共通のテーマにつながっている。私は日本の読者に、この本から日本の植民地支配と向き合う韓国の知識人の思想を受け止めてほしいと思う一方で、同時に、「韓国の」という形容詞なしで、歴史についての普遍的な考察として読んでほしいという思いも抱いた。

 原題は直訳すれば『我われの中の親日――反日を越えて脱植民の省察へ』。あとがきによれば、このままでは日本の読者には分かりにくいだろうと考えて、翻訳にあたってタイトルを変えたのだという。

 韓国において、「親日」とは植民地時代の対日協力を指す。だから「親日派」という言葉も、「日本が好きな人たち」ではなく、日本の植民地支配に協力した政治家、知識人、軍人などを指して使われる。「親日」という言葉の意味が日本と韓国では異なるのである。こうしたことを日本の読者の多くが知らないことを考慮して、日本版のタイトルになったようだ。

 原題には、著者の主張が直截に込められているが、日本版のサブタイトル「英雄にも悪党にもなれない私たちへ」も著者の言葉から来ている。

 「我われの中の親日」「英雄にも悪党にもなれない私たちへ」「脱植民の省察へ」と並べると、そのままこの本の構造になる。

植民地近代性論という視座

 著者の趙亨根は、植民地時代の韓国の社会的経済的変化について研究する社会学者であり、「植民地近代性論」の担い手の一人として知られる。

 韓国歴史学の世界では、植民地時代をどう見るかについて、3つの立場がある。一つは「植民地収奪論」。これは日本の植民地支配の本質を収奪とみて、それが韓国の自生的な近代をおしとどめ、歪めたことを強調する。これに対して、植民地支配のもとで工業化などが進み、それが後の経済成長の基盤となったとするのが「植民地工業化論」「植民地近代化論」である(その戯画的な部分を、日本で刊行された李栄薫編著『反日種族主義』に見ることができる)。

 これに対して、1990年代に登場した第3の立場が「植民地近代性論」だ。植民地近代性論は、収奪論と近代化論のいずれもが「近代」を無前提に肯定しているとして批判し、植民地下の民衆にとって「植民地近代」がどのような経験だったのかを見つめ、それを通じて「近代性」そのものの問題性を検証する。

 本書では第2章が、その植民地近代性論からの植民地近代化論への正面からの批判に充てられている。だがそれは、単なる学術的な議論にとどまっていない。禁欲的に実証的な批判が展開されているのだが、実証的批判を最後まで歩み通したとき、近代化論が無前提に信じる「GDP至上主義」の誤りというアクチュアルなテーマが浮かび上がるのだ。ここに著者の知的構えが現れている。

「普通の人」をめぐる思索

 ただし、この本全体の主題は、植民地時代の規定をめぐる学術論争を読者に紹介するところにあるのではない。そうではなくて、歴史に対する「普通の人」の責任についての思索へと読者を連れて行くところにある。

 「時代の罪を問うならば、個人の責任についても考えなければならない……時代の罪を問いながらも、個人の生も手放さないようにしたい」という緊張をはらんだ一文に、「普通の人」を見つめる著者の視線が現れている。そこには、困難な時代を生きた人びとへの共感がある。しかしその共感は、彼らの倫理的責任を直視することを妨げず、むしろずっとあとの時代を生きている私たち自身の内省へと引き取られるのだ。

 本書はまず、植民地下においてさえ「普通の人」の民族主義が「(大日本)帝国の欲望と同伴した」瞬間があった事実を示し、抵抗民族主義である韓国のナショナリズムの中にも帝国的な膨張志向が忍び込んでいることを指摘する。また、民族解放のためにこそ、独立運動をするのではなく医師としての研鑽を積む「実力養成の道」に進んだ若い医師たちのジレンマを通して、植民地下に良心的であることの困難を描く。

歴史清算の国際比較

 思索の旅はさらにフランスやドイツにまで向かう。それらの国で歴史の清算が困難にぶつかった瞬間を見るためだ。

 韓国では、フランスは対独協力者を徹底的に処断したとして、多くの親日派を延命させた自国との対比で評価されている。だが著者は、フランス側でユダヤ人虐殺に関わった多くの責任者が、戦後、歴代政権やカトリック教会によって擁護されつづけた事実を紹介する。そして、すべてのフランス人がレジスタンスに身を投じたか、少なくともそれを支持したという神話を否定し、むしろドイツに協力したビシー政権を生んだのがフランス自身のファシズムと反ユダヤ主義であったことを明らかにする。

 著者はまた、ドイツにおいてナチスや親衛隊だけでなく正規軍の戦争責任が問われることへの反発を克服するまでの困難を語り、さらにユダヤ人自身の対独協力を指摘したハンナ・アレントの議論をも取り上げる。

 「フランスとドイツの双方で、少数の悪質なファシストと多数の善良な人びとという単純な二分法の構図は崩れた」と著者はまとめる。この言葉はもちろん、フランスやドイツにとどまるのではなく、韓国における親日派問題まで串刺しにするものとして提示されている。ファシズムも「親日」行為も、少数の「悪党」の行為ではなく、「普通の人」のなかに根を張っていたということだ。つまり、「我われの中の親日」である。だが著者は、誰もが悪いのだから善も悪もないといったニヒリズムに陥っているわけではない。もっと先に議論を進めようと促している。

 「過去の歴史清算は、一方が完全に勝利する白黒論理のゲームでもありえず、あらゆることは灰色だといった虚無主義に帰結してもならない。複雑な明暗と階調を明らかにしなければならない。それゆえに過去の歴史清算は一度では終わらず、繰り返されざるをえない」

 こうして著者は、歴史的現実の「複雑な明暗と階調」を踏まえつつ、「普通の人」の倫理的責任を真摯に考えようと呼びかける。歴史という舞台に、例えば超人的な闘いを貫いた独立運動闘士たちのような「英雄」と、自らの出世のために国を裏切った親日派のような「悪党」だけを登場させ、「普通の人」は観客としてそれに泣き笑い、拍手を送るだけといった歴史との向き合い方を否定する。普通の人も舞台の上にいるというのだ。

 「歴史は普通の人だからといって、倫理的判断の義務を免除してくれはしない。仕方なく順応しなければならない権力の圧力を前にして、普通の人も判断を下さなければならず、選択するしかない。その分、責任も生じる」

 しかし著者は、「普通の人」に英雄的な自己犠牲やリゴリズムを求めているのではない。歴史的犯罪を許した構造の究明へと進もうと呼びかけている。

 「清算の対象は、公認されたごく少数の売国奴から、私たちみずからが当然視してきた構造、あるいは私たちのなかに遍在する欲望と習性にまで拡張されうる。過去の歴史清算が深化するほどに、その矢は私たち自身の暗い内面へと向かう。それゆえに怒りでは充分ではない。私自身の闇を直視する勇気が必要だ」

 自らのなかに潜む闇を直視し、掘り下げていくことで、「独立」という言葉は「単なる日本への反対を超えて、植民地主義がもたらしたあらゆる暴力と差別、それを生む構造と欲望に対する批判と克服を意味することになろう」。それを通じてこそ、「英雄にも悪党にもなれない私たち」は、歴史的主体として歩むことができると、著者は説く。

 これが、「脱植民の省察へ」という原題のサブタイトルの意味だ。冒頭に紹介した、植民地近代化論への実証的な批判を通じて根底にある「GDP至上主義」を明らかにする第2章は、研究者としてのその実践例であった。「親日」問題の探求を、「少数の悪党」の捜索から「普通の人」の加担の構造へと深めることで、植民地主義や権力構造、経済成長至上主義への批判という現代の課題へと昇華させるべきということだ。

 「回避せずにその苦悩を貫くことで初めて、倫理的に成熟した主体となりうるからだ。みずからもそうした過ちを犯しうることについて想像を通じて体験することで、みずからの弱点を認めることのできる本当の勇気を学ぶことができるようになるだろう。私たちみずからも省察の対象とするような自己批判をともなうことで、親日派批判も深まる。そうすることで私たちの批判は単純な批判を超えて、現在と未来を行き交いながら、私たちみずからに対する警戒・省察の契機として発展させることができるだろう」

 私なりの本書の紹介は、以上のようなものになる。著者が呼びかけている「普通の人」にとっても読みやすい平易な文体で、しかし問題意識を単純化していないという点でも、優れた本である。韓国の優れた知識人特有の、どこか詩的な響きを帯びた簡潔な文章もいい。

日本はどこにいるのか

 韓国の知識人が韓国の歴史的課題と向き合った本書だが、それを深く掘り下げることで、そのまま普遍的、世界的な意義をもつ内容になっているとも感じた。日本語だけでなく、その他の国々、たとえば本書で取り上げられているフランスでも翻訳されてほしいと思った。

 一方で気になるのが、日本の存在感の薄さである。日本の植民地支配下での対日協力がテーマなのに、日本の影は薄い。それは一つには、「我われの中の親日」を見つめることを主題とした著者の姿勢から来ているのだろう。だが、「歴史の清算」の事例としてフランス、ドイツ、さらにはユダヤ人の自己省察としてハンナ・アレントまで取り上げられながら、日本のそれはほとんど出てこないことは、やはり気になる。かろうじて丸山眞男と「超国家主義の論理と心理」が、敬意とともにわずかに言及されるのみである。

 そこには、日本が、かつての侵略や植民地支配についてドイツやフランス、もちろん韓国と並べて論じられるほどの「歴史の清算」をしていないということがあるのではないだろうか。少数のナチス、ファシスト、あるいは植民地支配への協力者だけでなく「普通の人」の責任までを問う著者の倫理性から見て、語るに足る「歴史の清算」は日本には見えないということだ。

 実際、日本はいまだに「日本は侵略をしたのか」「植民地支配は悪いことなのか」といった、その手前の議論をしなくてはいけない段階にある。「普通の人」どころか天皇までも免罪された国である。歴史に白も黒もない、人生いろいろ、正義もいろいろ、諸行無常だといった、著者が繰り返し退けているニヒリズムが、むしろスタンダードであるような国である。韓国、フランス、ドイツとともに串刺しにしようにも、串を刺せるほど火が通っていないのだ。

 そうした日本の読者である私たちが、日本が作り出した「親日」問題についての韓国人の議論を読むことには当然、居心地の悪さが伴う。日本の読者は本書を、そうしたふがいなさを突き合わせながら読むことになる。著者は日本版序文で、「植民地支配を受けた人の内面も、単純な憎しみや服従する気持ちに二分化されてはいない。その複雑さは日本人の側でも同じことだろう」と優しい言葉をかけてくれてはいるが、「複雑さ」を語るレベルまで「日本人の側」は進んでいない。そうしたことを噛みしめながら能動的に再読するとき、本書からはさらに学ぶことがあるに違いない。 最後に。常々思うのだが、日本の人文系の読者の間でも、韓国の思想はもっと広く読まれてほしい。白楽晴、白永瑞、金東椿、韓洪九、文富軾、尹海東といった韓国の知識人たちの本がすでに日本語に翻訳されている(朴露子も翻訳されてほしい)。韓国の現実との格闘を通じて普遍的な問題と向き合った思想的営為として、それらがもっと読まれてほしいと思う。「ペンラデモ」という名前で韓国のデモ文化が輸入される時代である。韓国社会が生んだ思想的営為についても、私たちがモノを考えるときの指標となるべきだろう。

加藤直樹

1967年東京生まれ。ノンフィクション作家。著書に『9月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(ころから、2014)、『謀叛の児 宮崎滔天の「世界革命」』(河出書房新社、2017)、『TRICK 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』(ころから、2019)、『ウクライナ侵略を考える 「大国」の視線を超えて』(あけび書房、2024)など。

2026年8月号(最新号)

Magazine cover with a white koi fish swimming left against a blue-purple background and large pink vertical Japanese title text on the right side.