【書評】『アメリカはなぜイスラエルを支援するのか——揺れ動くまなざしの歴史』

兼子 歩(明治大学准教授。専門はアメリカ社会史)
2026/08/05

アメリカの鏡像としてのイスラエル

 2026年2月28日、アメリカ合衆国とイスラエルはイランに対して大規模攻撃を開始し、最高指導者ハメネイ師ら多数のイラン政府幹部を殺害した。国際法を無視したこの攻撃にはアメリカとイスラエルの深い同盟関係が表れていた。一蓮托生とも呼ぶべきこの両国関係は、イスラエル軍がガザで執拗に展開する虐殺行為に対し、米政府が極めて寛容であることにも示されている。今回のイラン攻撃については石油利権インサイダー取引疑惑や、エプスタイン文書から世論の目を逸らさせる動機も取り沙汰されてはいるが、イスラエル建国以来、米政府の親イスラエル姿勢は徹底しており、現在のトランプ政権とネタニヤフ政権の関係は長い蜜月の歴史の最新の一コマである。

 なぜアメリカはここまで長らく、そして深くイスラエルに肩入れしてきたのだろうか?

 まさにこの問いに答えることを企図した本書は、米・イスラエル両政府高官たちの交渉過程を分析する狭義の外交史ではない。本書の眼目は「アメリカのイスラエル支持という現実レベルの政治的決定の背後にある価値体系」を理解するために「社会的・文化的な領域」を分析する(7頁)点にある。この価値体系の把握には歴史的な変遷と積み重ねを辿る必要があるため、本書の射程はイスラエル建国後を中心的対象としつつ、19世紀末のシオニズム運動の勃興期、さらに合衆国建国以前にまで遡る。

 本書は年代順に各章が構成されており、アメリカ人がイスラエルを容認・支持・積極擁護することを正当化し促す文化・社会的な多数の要素を、近年の歴史学・政治学・文化研究の様々な成果を巧みに織り交ぜ、平易な文章で丁寧かつ鮮やかに論じている。本書において特に重視されている要素を以下に紹介する。

 著者によれば、宗教的要素はイスラエル支持を駆り立てる重要な動機であった。北米大陸への入植者はその入植事業や合衆国の建国を旧約聖書の物語にたとえ、自己を古代イスラエルの民に擬して神の意志の実践者と定義した。18世紀末に広まる千年王国論にはすでに、ユダヤ人のカナン帰還を地上における神の王国の実現の前提条件とするキリスト教シオニズムが見出せた。20世紀初頭のシオニズム運動の支持者はパレスチナのユダヤ人国家建設はキリスト教の聖地エルサレムをムスリムから奪還することだと訴えた。

 1950年代の冷戦期には、共産主義を敵としてカトリックとプロテスタント、キリスト教とユダヤ教の断絶を埋めるための包摂的な「ユダヤ=キリスト教的」伝統という概念が普及した。60年代以降、人工妊娠中絶・同性愛・進化論などをめぐる社会の変化に対する危機感から台頭した福音派は、千年王国論から派生した天啓史観(ディスペンセーショナリズム)を掲げた。天啓史観がアダムとエバの時代から千年王国誕生に至るまでの時代を区分した中にユダヤ人のパレスチナ帰還を必然の段階として組み込むことで、福音派はイスラエル擁護のキリスト教シオニズムに邁進し、保守政治と深く結びつきながら現在に至っている。

 より世俗的なアメリカ的物語や価値観もまた、アメリカ世論のイスラエル支持を促した。ナチスに迫害されるユダヤ人を救うべきとする人道主義、そして救うべきユダヤ人を救えずにホロコーストの犠牲にしてしまったという悔悟は、イスラエル支持を後押しした。しかし親イスラエルを促した価値観は人道だけではない。著者は、科学技術と開発援助による未開発地域の近代化というニューディール期に生まれ育った思想が、ユダヤ人国家をパレスチナとその周辺地域に近代化の恩恵をもたらす「近代化エージェント」とみなす認識を導き、冷戦期にはイスラエルを世界秩序の安定化と米国の権益保持のための戦略的資産とする理解を根付かせたことを明らかにしている。

 先進的なイスラエルというイメージはその後も形を変えて持続した。ベトナム戦争が軍事的に泥沼化し、反戦運動により戦争の正当性が揺らいでいたアメリカは、1967年のアラブ・イスラエル戦争におけるイスラエル軍の劇的勝利に快哉を叫んだ。著者によれば、アメリカにとってイスラエル軍は自国の軍事行動に進んで身を捧げる愛国的市民が担う進歩的で民主的な軍隊という理想像に映ったのだという。さらに9・11以降の反イスラム的な「テロとの戦い」を通じてアメリカではイスラエルを対テロ安全保障の模範国家とする理解が広まり、21世紀にイスラエルでハイテク企業が次々誕生・成長するとイスラエルは「スタートアップ・ネイション」であるというイメージが構築された。著者はこうしたイスラエルの肯定的イメージの醸成が同国に対するアメリカ人の好意を補強したと指摘する。

 アメリカのイスラエル支持者が同国を近代化の旗手として描くことを可能にしたのは、イスラエルが建国されたパレスチナおよび中東地域全般を、ユダヤ人により所有・開発されるべき未開・前近代・無主の地とする表象であった。著者は、この論理がアメリカの入植者植民地主義(セトラーコロニアリズム)のイスラエルへの適用であることを明らかにする。イスラエル支持者は、先住民と戦い開拓を進めてきたアメリカ人の物語の似姿をユダヤ人入植者に投影し、両者の近似性を強調する語りを駆使してきた。入植者植民地主義は、先住民排除と土地収奪を通じた合衆国とイスラエルの建国・膨張の歴史と現在を正当化し、イスラエルに奪われ殺されるパレスチナ人を人道主義的共感の対象外としてきたのである。

 本書は大衆文化、特にハリウッド映画が親イスラエル的見解の流布に果たした役割にも注目する。たとえば1960年公開のハリウッド映画『エクソダス』(この作品の制作はイスラエル政府に支援されていた)の、主人公であるユダヤ人パレスチナ入植者をアメリカ西部開拓民風に描き、ユダヤ国家建設をアメリカ独立革命になぞらえる演出はその典型であった。イスラエルは2002年以降、ヨルダン川西岸の占領地やガザ地区で分離壁を建設してきたが、2013年の映画『ワールド・ウォーZ』は、パレスチナ人の隠喩としてのゾンビから壁で守られたイスラエルを文明的な寛容社会として描き、分離壁を合理的な平和の手段として肯定した。

 イスラエルの肯定的イメージを構築しアメリカに対して提示する過程において、ジェンダーとセクシュアリティが果たす役割に注目している点は、本書の特徴である。第二次大戦以前には「過度に都会的」で同性愛的なユダヤ人男性というステレオタイプが支配的であり、戦後にはホロコーストの受動的犠牲者というイメージが優勢になったが、『ベン・ハー』『十戒』などユダヤ教徒の男性を主人公とした1950年代のアメリカ映画は頑健で「男らしく」敵と戦う異性愛主義のユダヤ人男性という像を前面に打ち出した。21世紀に「多様性」がアメリカの公的な文化になると、イスラエル政府や米国のイスラエル支援団体は、同国が女性に機会が開かれ同性愛者が軍隊で活躍できる平等と多様性の理想郷であり、ムスリム諸国が女性や性的マイノリティを迫害する後進的社会であると単純化した構図を喧伝した。これは米国の右派だけでなくリベラル派にも好まれやすいイスラエル像であった。

 ホロコーストをいかに記憶するかという点も、米・イスラエル関係を規定する政治の一環となった。戦後しばらくは受動的な犠牲者というユダヤ人像を克服し「男らしい」ユダヤ人像を立てるためにホロコーストの記憶は強調されなかったが、1970年代以降にアメリカでホロコーストへの関心が高まると、イスラエル支持団体はこれを積極利用した。著者は1993年に首都ワシントンに完成したホロコースト記念博物館で展示すべきホロコースト犠牲者にシンティ・ロマや同性愛者などを含める案が排除され、ユダヤ人のみを他と比較不能な特別な犠牲者として記憶する場にされたことを指摘する。

 本書は、以上のような多数の要因が時代状況に応じて浮上・後退しつつ重なり合ってアメリカの親イスラエル姿勢を形作ってきた経緯を浮かび上がらせる。アメリカは自分たちの求める理想像をイスラエルに投影し、イスラエルは米国の期待に積極的に合わせた自画像を提示する。この多面的な鏡像関係は、両国の深い同盟関係を醸成してきた。本書が明らかにしたことは、アメリカの親イスラエル的外交が狭義の経済的・軍事的利害や政治家個人の事情のみによって動機付けられているのではなく、より深いレベルで米国がイスラエルを擁護する姿勢をとる多重な背景に枠付けられており、それゆえに変革は容易でない、ということである。

 ただ、両国の鏡像関係にひびが入らないわけではない。著者はイスラエル擁護に用いられた要素が対抗的に読まれうる可能性を示唆する。本書では、パレスチナ人の苦難をアメリカ先住民になぞらえる語り、黒人知識人のパレスチナへの共感、イスラエルの軍事行動や入植政策への人道主義的な批判、分離壁がアパルトヘイトになぞらえられバンクシーによるグラフィティの標的になるなど、多彩な事例が随所で挙げられている。イスラエル支持の歴史的構造を丹念に分析し矛盾を見出していけば変革の契機を見出しうることも、本書は示している。

 著者はイスラエルに対するアメリカの持続的な好意の背景を見事に説明しているが、本書にさらに求めたいことをあえて挙げるならば、米国におけるイスラエルへの批判の抑圧という現象への分析であろう。第2期トランプ政権は大学生によるパレスチナ連帯の抗議行動を「反ユダヤ主義」として弾圧しているが、トランプ政権以前から米国の大学はイスラエル批判が極度に困難な場となっていた(たとえば2016年9月に、カリフォルニア大学バークレー校でパレスチナ問題を入植者植民地主義として考える学生主催の授業が、ユダヤ系団体による激しい非難により停止された)。パレスチナへの共感やイスラエルの政策への批判を反ユダヤ主義と直結させる言説は、イスラエル批判の封殺に絶大な効果を発揮してきた。こうした言説がいつどのように生成・流通し影響力を得るに至ったのかという点にも、ぜひ触れてほしかった。

 この点に関連してもう一つ指摘すべきは、人種という問題である。著者はムスリム/アラブ人を「白い肌を有さない」(111頁)存在ゆえにアメリカ文化に地位を得られなかったとしており、アラブ人が「非白人」でユダヤ人が「白人」だと自明視しているようにも読める。だがそのことは歴史的には自明ではない。人種とは恣意的で流動的な概念である。著者は20世紀初頭にアメリカでシオニズムが支持された背景に東欧ユダヤ人移民の米国への流入を抑制する動機もあったと指摘しているが、当時はユダヤ系もアラブ系もアメリカ主流社会から社会的には白人か否かが疑われうる「中間的な(インビトウィーン)」存在と扱われ、しかし法律上は「白人」として帰化可能な人々だった。ユダヤ人を「白人」としてムスリム/アラブ人を「非白人」視するのは、戦後のイスラエルをめぐる冷戦政治の産物としての人種認識であり、それを可能にしたのが「ユダヤ=キリスト教的」という言説だったのではないか?

 また、著者は1960年代以降に「白人」諸集団がエスニックなルーツを肯定・強調する「エスニック・リバイバル」現象の中でユダヤ系アメリカ人がイスラエルへの同一化を高めたと指摘している(125頁)。だがエスニック・リバイバルは、公民権闘争などを通じて白人至上主義が正当性を失い始めた時代に、「白人」とされる人々が「イタリア系」「アイルランド系」等のエスニックなルーツとアイデンティティを前景化した結果、かれらの有する白人性特権の存在を否定・不可視化した面がある(本書で引用されたM・F・ジェイコブソンの研究は、エスニシティ概念のそうした政治性を指摘している)。エスニックな「ユダヤ」性やホロコーストの比較不可能性を強調することが、米国でイスラエルが「白人」国家として特権的な共感を得つつ、イスラエルのパレスチナ人迫害を白人至上主義として批判しにくくし、イスラエル批判をユダヤ民族差別として糾弾できるようにしたという可能性も指摘できる。恣意的だが身体に根ざす分類であるがゆえに、あたかも自然で固定的で宿命的な差異であるかのように人々の認識枠組を形作り不公正な権力勾配を生み出し正当化する「人種」という現象に踏み込んだ分析があれば、米国のイスラエル擁護を駆り立てる原動力をさらに深く追究できたのではないか。

 とはいえ、以上の点はないものねだりであり、本書の議論の秀逸さを損ねるものではない。アメリカとイスラエルの対イラン戦争が世界に混迷をもたらしている今、この状況を根源的に理解する上で、本書が必読の書であることは疑いないであろう。

兼子 歩

(かねこ・あゆむ)明治大学准教授。北海道大学大学院文学研究科博士後期課程単位修得退学、修士(文学)。専門はアメリカ社会史、ジェンダー研究。共著に『「ヘイト」に抗するアメリカ史:マジョリティを問い直す』(彩流社)、『「ヘイト」の時代のアメリカ史:人種・民族・国籍を考える』(彩流社)ほか。

2026年8月号(最新号)

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