(編集部より)記事の特性上、この記事は全文公開にしています。安定した出版活動のため、もしよろしければ文末のボタンから寄付をお願いします。
生き方を選択する権利
社会のデジタル化が進むなかで、あたかもデジタル以外に選択肢はないかのような状況が世界的に広がっています。デジタル技術にはもちろん利便性があります。人とより速く、より多くコミュニケーションできますし、ソーシャルメディアによって、これまでマスメディアが報道してこなかったことでも個人が発信できるようにもなりました。より多様な情報を迅速に手にできるようになったという、肯定的な側面は確かにあります。
しかし現在、デジタル技術が社会の基盤を構成するようになるにつれて、その負の側面への認識が広がっています。子どもたちのメンタルヘルスの悪化、ゲームやSNSへの依存傾向の拡大は、象徴的な出来事といえるでしょう。
できることなら、日常を侵蝕してきたスクリーンから離れたい、家族や親しい人たちと向き合って過ごす時間を取り戻したい、スマホなんか使わずに生きたい―─そう希望する人たちは、しかし、もはやそれが困難だという「現実」に直面するでしょう。レストランでもスマホでの注文を促され、行政手続きすらスマホ経由で行なうように半ば強制され、それができない市民は不利益を強いられます。
ここで重要なことは、こうした状況は、自然にできあがってきたものでは決してなく、ビッグ・テックをはじめとする関連企業の利潤追求の結果として、あるいはそれと結びついた政治の結果としてもたらされたものであり、きわめて人為的な選択の結果として存在している「現実」である、ということです。
私は、「アナログで生きる権利」を、「旧来の生活習慣のとおりに生きる権利」としてではなく、「未来に向けた積極的で創造的な権利」として位置づけたいと思います。昔を懐かしむ世捨て人の権利ではありません。デジタル化の弊害が看過できないほどに深まっている今だからこそ、どのような技術をどのような条件で使うのかを自分たち自身で決められること、その選択を妨げられないこと、より自由で平等な社会であるためにアナログの手段を選択できること、そのような権利です。
私自身もスマートフォンは持っていません。そうすると学生から、「先生とはジェネレーションギャップがあります」と言われることがあります。技術が分からない「古い世代」だ、というわけです。このような感覚の背景には、経済成長戦略のもとで「デジタル化で遅れをとってはならない」という政治の姿勢があり、若い世代にとっては、SNSなどのバーチャルなコミュニケーションに3加しなければ人間関係が維持できない、という切迫感があります。それがテック企業の広報戦略とあいまって、「アナログを選びたい」という市民の希望が「時代遅れ」として扱われてしまうことにつながっています。
かつてのアナログしかなかった時代に戻れ、ということではありません。それは不可能です。それに、アナログの時代であれば市民の権利が保障されていたというわけではありません。生活保護の申請を水際で追い返すような、制度上は存在する権利を手段のところで制限するようなことは以前からありました。
しかし、現在の問題は、そうした実質的な制限がデジタル化によって見えにくくされていることです。オンラインの申請フォームから外れた要求はできないようになっており、問い合わせ先にたどり着くまで何段階も操作を求められ、ようやく電話番号を見つけても長時間待たされる。権利を行使しにくくする思惑が技術に埋め込まれ、システムが設計されているのです。
対面なら、目の前の人に事情を話し、その人にあった適切な対応がとられる可能性があります。デジタルでは、誰が決めたのか分からない規則が画面の向こうで働き、人間の判断へ届く道そのものが塞がれます。
介護や医療へのアクセスでも同じことが起きます。私も親が80代半ばとなり、事実上強制となってきているマイナンバーが高齢者にとってどれほど大きな障害になるかを感じています。皆保険制度のはずなのに、マイナンバー保険証を取得しなければ制度へアクセスできなくなる、と脅されている。技術は本来、権利を実現する手段のはずです。それが逆に、政府の方針に協力しなければ権利を行使できないようにする門番になっています。だからこそ、デジタルの権利実現的側面を残しながら、負の側面を明らかにし、改革し、規制していく議論が必要なのです。
したがって、まず言えることは、アナログの手段を残すことは、特に行政的な手続きにおいては、デジタル手段を持てない事情を持つ人、持たない選択をする人が、同じ権利へアクセスするための不可欠の条件だということです。「デジタルが選べる」ことと、「デジタルしか選べない」ことはまったく違います。複数の手段が並び、それぞれの人が自分で納得できる道を選べる状態を保障させることが、「アナログで生きる権利」の出発点です。
調達される「同意」
現在のデジタル化が引き起こしている最大の社会的課題は、監視社会化です。監視をされずにデジタル技術を使うという選択肢はほぼありません。監視の主体も一人の「ビッグ・ブラザー」ではありません。IT企業や通信会社が個人データを集め、それが政府や警察、諜報機関へ流れ込む。複数の主体による共同作業としての大量監視の仕組みが、過去25年で構築されてきました。
新しいアプリを使ったり、ウェブサイトへアクセスしたりすると、利用条件に「同意」しなければ先へ進めません。けれども、法律用語で書かれた長い規約文書を一つひとつ読み、集められた情報がどう使われるかを理解する時間は、普通の人にはありません。カーネギーメロン大学の研究チームの調査によれば、デジタルツールを使う平均的な市民がまともにそれらの文書を読もうとすると、1年のうち3カ月をそれにあてることになるとされました。提供する企業の側も、利用者が読まないことを折り込み済みにしています。長大な文書のどこかに難解な表現で「個人情報を第三者へ渡す場合がある」と書かれていても、その影響は具体的に示されません。理解できない内容に同意しなければサービスを利用できないのなら、それは意味のある同意とは言えません。技術を使うことと監視されることが一体化している状況では、利用者に真の選択肢があるとは言えません。
こうして本人の意味ある同意なしに集められたデータは、顔認識システムやウェアラブル端末から得られるバイタルデータ、AI、スマートシティなど、次の技術やデータ商品の開発に使われます。政府へ渡れば諜報データにもなります。巨大IT企業は、データそのものを売るだけではありません。ある商品を買う可能性が高い人を細かく分類し、広告主が商品情報をその人に届くようにするマイクロターゲティングの分析にデータを使います。利用者の情報をもとに広告戦略を組み立て、必ず自社の仕組みを通して広告を打たせる。グーグルを筆頭に、それが利益を生むビジネスモデルになっています。
たとえば、ある企業がカナダで50代のアジア系女性に化粧品を売りたいと考えたとします。これに対しプラットフォームは、集めたデータから、その広告をクリックしそうな人を選び、個別に広告を届けます。広告を見る側には、自分に見合った情報が偶然現れたように見えます。しかし、その背後では、年齢、性別、人種、居住地、家族構成、感情、悩み、検索や購買の履歴などが組み合わされ、反応が予測されています。誰に、いつ、どの言葉を見せれば行動するかを計算するのがアルゴリズムで、予測は自動化されています。
データ利用は消費の領域にとどまりません。自衛隊や警察による個人情報収集やスマホのロックを解除する監視ツールの導入が報道されていますが、AIを開発する企業や、諜報・軍事分野で政府と取引する企業は、集められた情報を次の製品や軍事作戦のために使います。本人は、日常のサービスを使うために情報を渡したつもりでも、その情報がどのデータベースへ移され、何の学習や判断に使われるかは追跡できません。一度収集されたデータが、本人の許可なく別の技術の開発に投入され、さらに新しい権利侵害を可能にする。監視が、その次のさらに強力な監視を生む循環(エコシステム)が立ち現れています。
技術と監視を切り離す
デジタル技術と監視の結びつきは、技術の自然な発展として生じたものではありません。技術がつくられるときには意図があり、現在は意識的に監視が組み込まれています。そして、その仕組みの合法性を確保し、政策として制度化する過程が同時に進んできました。技術の進歩だから私たちには何も関与できない、社会が発展しているのだから仕方がない、ということではないのです。誰が、何の目的で、どのような設計を選んだのかを問う必要があります。
たしかに、デジタル技術には個人情報を一元化し、検索しやすくする性質があります。紙で分散していた戸籍や住民票の情報は、電算化によって中央集権的にまとめることが可能になりました。しかし、だからといって一元管理しかできないわけではありません。個人情報を分散して管理し、必要な範囲で限定的に利用するという設計もできます。プライバシーや自己情報コントロール権を優先する制度設計をしていれば、現在とは違う形になったはずです。
日本では、盗聴法や住基ネット、特定秘密保護法、共謀罪、サイバー防御法など、デジタル技術による情報収集や監視の拡大を支える法制度がつくられてきました。マイナンバーカードを広げるためのアメとムチの政策があり、高市政権のインテリジェンス政策(スパイ機関の創設やスパイ防止法の制定)もその代表です。反対運動や権利侵害を訴える声は、企業にも政府にも届いています。だからこそ、データ収集や利用を合法化し、異議申し立てを難しくする法制度を政府はつくりたいのでしょう。技術の普及と法制度の変化は、別々の出来事ではありません。
文化的な領域でも、監視を受け入れる下地がつくられています。米国では、ハリウッドと軍や諜報機関が協力して作品をつくってきた長い歴史があります。監視技術はスマートで、それを使う人には正しい目的がある、という物語が繰り返される。法律や政策を受け入れさせるために、監視する側を自然に信頼させる世論づくりも同時に進んでいるのではないかと感じます。
日本のドラマでも、自衛隊の秘密部隊や税関の調査官が、法の外側にある力や監視技術を使って国民を守る物語が見られます。もちろんフィクションは現実そのものではありません。しかし、民主主義の立場から最も厳しく統制されるべき実力組織が、視聴者の知らないところで働く頼もしい存在として描かれると、秘密性そのものが魅力に変わります。本来問うべきなのは、監視する人を誰が監視するのか、誰が責任を負うのかということです。目的が正しいと見えるだけで、手段まで正当化しては危険です。
こう考えると、デジタル技術による監視問題は、端末やソフトウェアだけを見ても分かりません。企業の利益、政府の政策、監視を合法化する法律、警察や諜報機関を正当化する文化が互いに支え合っています。だから、個人が一つのアプリを削除すれば問題が解決するわけではありません。しかし同時に、監視と技術の結びつきが人間の選択によってつくられたのなら、人間の選択によって切り離すこともできます。プライバシーを中心にした設計、情報の分散管理、独立した監督機関、異議申し立ての道を、デジタル化の最初から組み込むべきです。
監視から市民の行動変容へ
監視社会化への批判に対しては「私は悪いことはしていないから問題ない」、「ただ見ているだけなら実害はないのではないか」という反応があります。しかし、企業や政府は、個人情報を集めて保存するだけではありません。その情報を使って個人や集団の生活へ介入し、市民の行動を変容させようとします。監視の問題を考えるときは、誰が見ているかだけでなく、その情報によって何をさせようとしているのかまで考えなければなりません。
そのことが広く目に見えるようになった契機の一つが、コロナ禍でした。「行動変容」という言葉が公然と使われ、スマホの位置情報やカメラを駆使しながら、人々を家にとどめようとしました。海外から戻った人の隔離を監視するため、役所から自撮りの画像を送るよう求められることもありました。監視データが、人々の動きを直接変えるために使われたわけです。危機が起きると、普段なら受け入れられない監視技術が、「安全を守る」という理由を得て一気に広がるという典型的な事例です。
2001年の9・11後にも、指紋認証や顔認識など、それ以前から存在していた技術が、航空の安全や国家安全保障を理由に急速に導入されました。そして危機が終息しても、監視技術は日常生活に居座ります。危機は、新しい技術を突然生むというより、受け入れられなかった技術に例外的な理由を与え、平常時の仕組みに変えてしまうのです。
この25年ほどのあいだに、監視資本主義は、以前には考えられなかった規模で世界経済へ組み込まれました。ショシャナ・ズボフは、グーグルが個人データを利益の最大化に利用してきた過程をたどり、それを「監視資本主義」として理論化しました。その最終目標は、消費者の行動そのものを変え、常に商品やサービスを消費する人をつくることです。しかも、「買わされている」というからくりを隠し、本人に自分で選んだと思わせる。それが最も効果的な監視による心理操作なのです。
ズボフの議論には、資本主義そのものへの批判的視点が不足しているという批判もあります。彼女は、監視を取り除き、資本主義を健全に保つにはどうすればよいか、という方向から考えています。それでも、監視が個人の自由を奪うだけでなく、民主主義の意思形成そのものを操作するという指摘は重要です。企業が人の経験を原料として取り出し、その一部を「行動余剰」として予測や介入に使う。そこでは、私たちが生きること自体が、企業の利益を生む資源に変えられています。
消費者の側から見ると、介入は小さな推薦(リコメンド)として現れます。次に見る動画、買う商品、読むニュース、出会う人まで、過去の行動から予測されます。一つひとつは親切な提案に見えても、それが積み重なると、自分の視野と行動の範囲が限定されていきます。自由を奪うというと、誰かに禁止されたり命令されたりする場面を想像しがちです。しかし監視資本主義では、禁止ではなく誘導によって自由が狭められます。何を見なかったのかさえ見えないため、抵抗も起こりにくくなります。
デジタル大量監視を実行する国家の目標もよく似ています。抵抗する人々を無力化し、自ら進んで国家権力を支える国民をつくろうとする。監視資本主義は企業にとって都合のよい消費者を、監視国家は権力にとって都合のよい国民を生み出そうとします。どちらの場合も、命令に従わせるだけでは不十分。企業や政府が求めるものを、自分自身が求め、選んだのだと思わせることが重要なのです。
個別化と全体化
デジタルコミュニケーションの進化は、政治に広く深い影響を与えています。近代の技術は、「より速く、より多く、より強く」という方向で開発されてきました。帝国主義や入植者植民地主義とも深く関わり、支配する側の役に立つ技術が育成されました。現在のAIも、巨額の投資資金が集中し、規制が意図的に弱められるなかで、十分な倫理的審査も民主的な議論もないまま市場に出され、急速に普及しています。技術の方向性は、科学的に決まるのではなく、資金と権力によって設定されています。
フーコーが論じたように、社会の技術には、人々を個別化する作用と、全体の一部へ組み込む作用があります。ソーシャルメディアは、表面上は横につながる仕組みに見えます。しかし、使っているとき、一人ひとりは自分の画面を見て、情報を受け取り、発信しています。身体は切り離され、個別化される。一方で全員が同じネットワークとプロトコルの内部に置かれ、企業や政府が上から流す情報や、あらかじめ設計した行動の型へ組み込まれます。個別化と全体化が同時に進むのです。
ゲームの「ポケモンGO」は、その構造を目に見える形で示している例です。画面に現れる情報に沿って、人々はある場所から別の場所へ移動します。本人は「動かされている」とは感じません。好きなキャラクターを探し、楽しんでいるだけです。しかし、スターバックスが店に人を集めるためにキャラクターを置けば、利用者はそこへ向かい、コーヒーを買う。自ら進んで行動しているように見えながら、全員が同じ行動をとるよう遠隔から導かれています。操作されている人がそれと気づかず、自分の欲求だと思う状態が現実になっています。
アルゴリズムは、過去に見た情報に似たものを次々に画面に送り込みます。一度ある政治家や論者の発信を見ると、その後も同じ方向の情報が並ぶ。異なる意見に接する機会が減り、個別化されたフィルターバブルのなかで、自分に心地よい説明だけを受け取りやすくなります。フェイクニュースやAIによるディープフェイクも、その環境へ入り込みます。社会への不満や不安が強いとき、単純で誤った説明が繰り返し届けば、人がそこへ取り込まれやすくなる。デジタルコミュニケーションが唯一の原因ではありませんが、現在の国家主義や権威主義の地すべり的な台頭を支える情報環境になっていると私は見ています。
同時に、人々の孤独が深まっています。カナダでは、コロナのパンデミック後、若い人のメンタルヘルスが大きな問題になりました。長時間、デジタル空間で過ごすことが日常になると、実際の場で他者と出会い、意見の違いを受け止める経験が乏しくなります。経済的な困難など多くの要因はあるにしても、デジタルコミュニケーションによる個別化が孤独や無力感を深めていることは見逃せません。
大学でも学生からは、「みんなの前で発表するのが怖い」という相談が来ます。他の人と同じ部屋で試験を受けられないため、個室を用意してほしいという要望も増えています。もちろん、一人ひとりに必要な配慮は行なうべきです。ただ、その数が急に増えているとすれば、社会的な背景と対策を考えなければなりません。
若い人の不安感の背景には、物価や家賃の上昇、不安定化する雇用、戦争などの社会状況があります。社会への不満や絶望が強まれば、集団的に排外主義や国家主義へ引き寄せられやすくなります。経済的不安、孤独、アルゴリズムによる情報の囲い込みと誘導は、それぞれ別の問題ではありません。
個人の尊厳を取り戻す
こうした状況で「アナログで生きる権利」を主張することは、個人を取り込もうとする監視資本主義から自分の身を引きはがすための、有力な選択です。私たちの意識を収奪し、行動変容を迫るアルゴリズムに対して批判的な視点を持つ。その仕組みを知り、必要なら拒絶することによって、独立した思考を回復し、個人の尊厳を取り戻していく。これはまさに憲法で保障された権利です。憲法の理念とデジタル社会のあり方を結びつけて考えるべきときです。
デジタルのすべてを拒絶することはできなくても、アナログを選ぶことによって監視や行動変容の誘導から距離を置くことはできます。それは、「より速く、より多く、より強く」という価値観からいったん外へ出て、別の社会のあり方を考える一歩になるでしょう。
私はスマートフォンを持たず、いわゆるガラケーだけを家族と共有しています。すると電話会社からの「買い替えろ」という圧力がすごいんですね。通信会社は、3Gから5Gへと通信速度を速め、既存の端末はサポートしないから買い替えろと言う。こちらが求めていないサービスであっても、企業の販売戦略によって生活上の選択肢が狭められていく典型です。それでも、自分のライフスタイルとして主体性を保つことには意味があります。選べること自体を、権利として守らなければなりません。
スマホを見続ける生活では、集中力が奪われていくことが多くの研究で示唆されています。ひっきりなしに届く通知に注意を奪われ、授業中にもタイムセールのオンラインショッピングができる。常に注意が引き剝がされ、それがないと自分が置いてけぼりを食ったり、損をしたりしないかと、腰が少し浮いたような状態になります。
私たちは、紙の本を読み、ノートにメモを取り、目の前の人との会話に集中する時間を取り戻さなければいけません。注意をどこへ向けるかを自分で決められることも、個人の尊厳の一部だと思います。
エージェンシーとは、自分が行為の主体になり、基本的な決定をする力です。それは最初から十分に備わっているものではなく、選択を重ねるなかで育ちます。企業が用意した限定的なメニューからクリックするのではなく、そもそもその仕組みに3加するかどうかを決める。デジタルを使わない選択を現実に可能にすることは、エージェンシーを取り戻すことです。そして、デジタルを選択しない人が不利益を受けない環境が保障されてこそ、その力は一部の人の特権ではなく権利になります。
法規制と集団的な抵抗
アナログを選ぶ権利の保障を求めつつ、その一方で、デジタル技術の民主化も進める必要があります。現在の状況では、監視や個人情報の収集などを避けながらデジタルツールを使うためには、かなりの技術的知識が必要です。しかし、それではすべての人の権利を守ることができません。お年寄りや子どもを含め、技術的知識の有無にかかわらず権利が保障されるには、実効性のある法規制が必要です。利用者一人ひとりの自己防衛に任せてはいけません。
法律で技術をどこまで規制できるのか、という疑問はあります。けれども、法規制が企業や政府にとって大きな制約になることは確かです。監視や個人情報収集を正当化する法律を政府が次々につくろうとするのは、逆に言えば、違法だと批判されることを嫌うからです。つまり、個人情報の目的外利用を禁じ、違反に大きな不利益を課す法律をつくれば、監視社会化を止める力になります。現状は企業と政府がさらに攻撃的な監視を可能にする制度をつくろうとしているので、まずそれを止める必要があります。
欧州のGDPR、一般データ保護規則は、完璧ではありません。それでも、グーグルやフェイスブックなどが目的外に個人情報を使ったとき、罰金を科し、違法行為を行なっている企業だと社会に示すことができます。巨大IT企業は、自由や民主主義、「楽しい未来」を体現する企業というイメージによって市場を広げてきました。その企業が権利を侵害していると公に認定されることは、金銭負担だけでなく、イメージの面でも大きな打撃になります。日本でも同じ水準を目指して法制化を強める一歩が重要です。
北米では、ソーシャルメディアによって子どものメンタルヘルスが深刻な被害を受けたとして、保護者や学校教員が巨大企業の責任を問う動きが起きています。子どもが教室での集中力を失い、教育が成り立たなくなっている現場の状況から、教室へのスマホの持ち込みを制限する規則も広がりました。先日、フェイスブックを運営するメタ社と米国の複数の州との間で和解が結ばれました。学齢期の子どもたちの利用時間を減らす内容が柱となっており、評価できる点もありますが、その対策が新たな年齢把握や利用時間の確認という監視を伴うことになります。企業は法規制を避けて自主規制で済ませようとし、さらに新たなデータ収集を強化しようとしている面が見てとれます。それでも、被害を個人や家庭だけの責任にせず、企業の設計と責任を問うようになっていることは、大きな変化です。
人々が日常の違和感を共有し、訴訟や運動につなげることが重要です。子どもがスマホばかり見ていて会話がなくなったのは、自分の管理が悪かったからだ、と思っている親は多いでしょう。しかし、それは違うのです。子どもをターゲットにした依存を生む仕組みが意図的に設計され、組み込まれているのです。親、教師、若者と働く人たちが、それぞれの場所で感じたデジタルの害を共有し、社会運動にすれば、企業にプライバシーを重視した仕組みをつくらせ、法制度を変える力になります。小さく見える変化が、次の変化を引き起こし、意識を変えていきます。
教育から始まる選択
教育の場ではAIの問題を避けて通れなくなりました。課題を書くときにAIを使えば、それは剽窃やカンニングに当たるのだということを、最初の授業から説明しなければなりません。読む、考える、自分の言葉で書くという行為は、大学教育の基本です。その過程をAIに渡してしまえば、学生の思考だけでなく、教員がつくった教材や学生自身の文章も企業のシステムに取り込まれてしまいます。
大学では、AIの禁止より、どう倫理的に組み込むかということが議論になりがちです。大学が産業と強く結びつき、資金が集まる技術を拒みにくくなっていることも背景にあります。しかし、問題が起きてから監視的な手法で対策するという現在の方向は誤っていると思います。AIの使用を認める一方で、提出物が本人のものかを確認するために監視を強めるなら、学生と教員の信頼はさらに損なわれます。最初から、どの場面でAIを使ってはならないのか、読み、考え、書くことを独立した人間の営みとして守るという原則が必要です。教育の目的から見て有害な技術を取り入れないという判断も、大学の責任です。
私はメディアの授業で、ソーシャルメディアから一週間離れる「ディスコネクト・チャレンジ」を行なっています。最初の1週間は、1日にどれだけ使っているかを自分で記録し、次の1週間は、必要な連絡を除いて、何も考えずに画面を見続けるマインドレス・スクローリングをやめてもらいます。教員が逐一監視するのではなく、学生が自分で決めて実行し、その経験をグループで振り返ります。
最初はつらかったという学生もいますが、全体として反応はとても肯定的です。鳥の声に気づいた、空気のよさが分かったという感想が聞かれます。そして、もっともよく聞かれる声は、よく眠れるようになった、という感想です。ギターを始めたり、料理をしたり、友人や親戚の家を訪ねたりする人もいます。単に我慢するのではなく、スクリーンに投入していた時間に別の経験をすることで、デジタルとは違う生活の落ち着きや自然を実感できるのです。
ここで重要なのは、自分には違う選択ができると知ることです。エージェンシー、つまり行為主体として決定する力は、主体的な選択をしたときに現れ、使うほど育っていきます。若い世代はすでにスマホやSNSのない社会を知らないからこそ、短い期間でも別の時間を経験する意味があります。選択肢を示さずに自己責任だけを求めるのではなく、選ぶ力を育て、選んだ結果を一緒に考えることが教育の役割だと思います。
アナログで生きる豊かさ
デジタルを離れて、読書をするために集まるサークルや、ボードゲームを楽しむ場が生まれています。対面では、意見が違っていても同じ場所にいられます。近所の人どうしなら、考え方が違っても助け合う場面があり、相手の話を聞くうちに、知らなかった社会の一面に気づくことがあります。異質なものをすぐ排除しない関係や、生身の安心感、信頼感、共感は、そうした時間のなかで育つのではないでしょうか。人生の多くをバーチャルな空間で過ごせば、その機会が失われます。
アナログを選ぶと、一つのことに集中し、落ち着いて取り組むことができます。本を読み、手紙を書き、目の前の人と話す。そこには充実感や達成感があります。デジタル化がここまで進む以前の時間感覚を知っている世代には、その豊かさを次の世代へ渡す責任があると思います。
家庭のなかでも、スクリーンは会話を奪います。一方で、子どもは次々に送られてくる商品情報に触れ、買うことで幸せになったり、悩みが減ったりすると思う。親がこれに反対すれば、家庭のしつけの問題に見えます。しかし、その背後には、長く画面を見せてデータを収集し、広告へ反応させるほど利益が増える企業の思惑があります。親子の小さな衝突も、監視と行動変容のビジネスモデルから切り離して考えることはできません。
だからこそ、ボードゲームが見直されたり、一緒に本を読む時間がつくられたりすることには意味があります。個人的な実践はささやかに見えますが、デジタルに3加しつづけることだけが人生ではないと周囲に示し、生き方の多様さと社会の選択肢を広げます。
「アナログで生きる権利」は、デジタル技術を全面的に拒否することではありません。必要な技術を使いながら、監視を切り離し、使わない選択も保障することです。個人にとっては、自分の情報、自分の時間、自分の判断を自分の手に取り戻すことです。社会にとっては、技術の負の影響を認識し、規制し、誰もが別の手段を選べる制度をつくることです。選択の責任を個人だけに負わせず、公共的な権利として支える必要があります。
記録されないこと、忘れられること、匿名でいられること――。それらは克服されるべき欠陥ではなく、人が自由に考えて行動し、他者と関係を結び直すための条件です。
それらを取り戻すための取り組みは、もう始まっています。個人がスマートフォンを持たないと決めることも、学生が1週間ソーシャルメディアを離れることも、親や教師がテック企業の責任を追及することも、政府に実効性のある法規制を求めることも、同じ方向へつながっています。
アナログで生きる権利とは、技術が私たちの行動や思考、未来を決定するのではなく、自分たちで未来を選び直すための権利なのです。
