【特集:アナログに生きる権利】デジタル暴力時代への抵抗――私たちが人間らしく生きる権利

臼井 豊(立命館大学法学部教授。博士(法学))
2026/10/06

 社会も様々な「病気」に罹患する。症状は、不景気、貧困、格差といった形で明確に現れることもあれば、自覚症状なく着実に進行し社会を蝕むこともある。だからこそ、定期検診が重要だ。

 法学、ひいては社会科学では、社会を精密検査し「病気」の早期発見予防・診断につなげ、有効な治療法を提案する。

「デジタル強制」から「デジタル暴力」へ

 コロナが引き金となり、私たち人間社会は今、「デジタル化こそが効率的で現実世界を救う」という万能論、つまり重篤な「デジタル病」に蝕まれている。

 デジタル化がイデオロギーになって以来、「スマホ等による手続のデジタル化」、「オンラインのデジタル労働・教育」など、あらゆる場面でデジタル化が一気に加速・拡大した。

 その結果、高齢者・障がい者に散見される「デジタル技術脆弱者」、金銭面などが原因の「通信困難者」、デジタルと距離をとりたい「アナログ選好者」は、疎外感・孤独感、生きづらさ、日常生活すらままならない過酷さを実感せざるを得なくなった。スマホを持たない筆者も、無用な社会的混乱に巻き込まれている一人だ。

 さらに、この短期間のうちに、「デジタル強制」から、AIの飛躍的進化と社会実装も相俟(あいま)って、病状が「デジタル暴力」へと深刻化した。

 すなわち、デジタル化が社会的合意の不十分なまま暴走していること、効率性・生産性・利便性・投資回収率を極限まで高める「デジタル・AI資本主義」の末路として「人間が虐げられ、人類の存亡が脅かされている」こと、AIがAIを「自己複製・増殖」する危険な進化をもはや誰も制御できないこと、「人間の知能に追いつき追い越せ」のAIたちが「人間不要」論を囁き始めたこと、AIが戦争など暴力の単なる道具にとどまらず自律的主体として存在感を増していること等々、挙げるとキリがなく、すでに危機的状況に瀕していると言っても過言ではない。

 だが、国家や企業は開発競争の手を緩めるどころか、「デジタル国家の創造」を掲げ多額の資金を投入して、「デジタル・AI敗戦」とならぬよう「デジタル・AI富国強兵」という国策のもとに集結し、「デジタル・AI資本主義」の強欲(グリード)にひれ伏す。「デジタル・デバイド」などお構いなし、「デジタル・ファースト」から「デジタル・オンリー」へと突き進み、私たち国民に「デジタル・AIファシズム」を醸成する。フィルターバブルの中で「デジタル・AI万歳」と叫ぶエコーチェンバーに抗うだけで、「デジタル非国民」というスティグマを一方的に貼られる。さながら人間を選別する「デジタル優生思想」のようだ。

デジタル・AI化を減速・停止せよ

 私たちは、デジタル・AI化を運命として受け入れるしかないのか。

 しかし、そのまま受け入れるには、あまりにリスクが大きい。AI開発を牽引するアンソロピック社のダリオ・アモデイCEOも、AIが生物・化学兵器の製造をサポートしたり、独裁政権がデジタル監視・支配を強化したりするリスクに警告を発している。

 中国の故事(春秋左伝)の「病膏肓(こうこう)に入(い)る」に擬(なぞら)えれば、度が過ぎたデジタル化はある種の恐ろしい病魔と化し、社会の、官民問わずあらゆる重要な組織の奥深くへと潜り込む。しかも厄介なことに、「デジタル中毒・依存症」にはほとんど自覚症状がない。他者とのコミュニケーションを放棄する「歩きスマホ」・「ながらスマホ運転」という日常的に見られるようになった光景は、象徴的だ。それだけ危機的かつ末期的で、かつてのアヘンのごとく現代社会に蔓延している。人にぶつかり、ひき殺すリスクを犯してまで、スマホの虜になっているのだから。

 デジタル化の圧倒的なスピードを前にして、私たち人間に残された時間は、そう多くはない。だからこそ今、デジタル化社会で何が起こっているのか、その問題点と課題を精査した上で、社会が抱えるこの現代病と向き合い、場合によっては、中毒・依存症から脱するために隔離などの荒療治(「デジタル・デトックス」)も含めて、有効な治療法を真剣に考える必要がある。もはや対症療法では追いつかず、根本的治療が必要だ。そのためには、少なくとも「減速」、必要とあらば「停止」させることも辞さない。

 そのような状況だからこそ、「デジタル・AI資本主義」という暴力の正体に切り込む「倫理」の大切さが説かれるのであろう。「倫理の最低限度」と評される「法」の果たす役割も、大きく重要なはずだ。にもかかわらず、デジタル世界の法的ルールの整備は遅れているとともに、玄人にさえ複雑怪奇である。

「人間らしく生きる」という自然権の再確認

 「デジタル・デバイド」を拡大・助長し、人間の存在を脅かすデジタル化は、決して社会的進歩とは呼べない代物だ。科学技術の繁栄が、私たちの幸福を真の意味で実現するとは限らない。デジタル化さえすれば様々な社会問題がすべて一瞬で解決されるかのような「デジタル万能論」は、まやかしとして強く疑ってかかるべきだ。

 デジタル暴力社会だからこそ、「デジタル・AIファシズム」と対峙して「人間であるための権利の闘争」を行う必要がある。私たちが人間らしく生きるには、「ダイバーシティ」・「インクルージョン」の観点から、万人に平等な社会参加の機会が保障されていなければならない。つまり、これまで通り「アナログの選択肢を維持・残存させること」が必要不可欠なのだ。

 デジタル化の目的は、決して「デジタル・デバイド」や「社会的排除・差別」を生むことではない。むしろ、従来のアナログ社会で「生きづらさ」を感じていた人たち、たとえば障がい者にとっての「バリアフリー」を実現するデジタル技術の開発・普及に国家が率先して資金援助をし、デジタル企業が開発を促進するのが、理想的であろう。ただし、「人間の弱さ」をAI技術などで補うことを強制するデジタル暴力社会は、明らかに行き過ぎである。弱さは、逆に強さでもあるからだ。

 そのように考えると、「デジタル・オンリー」はあり得ず、せいぜいアナログな人間の存在に十分配慮した上での「デジタル・ファースト」が許容の限界であろう。本来的にデジタル化は、行政や企業など、あくまで組織内部での業務処理をメインに考えるべきだ。

権利として明記せよ

 デジタル強制を暴力的に推進する現代社会においては、人間が本当の意味で自由であるために、そして「人間本位のデジタル化」をめざすべく、「存立・尊厳が脅かされるアナログな人間を尊重する権利」を再確認することが出発点となる。

 だからこそ筆者は、「アナログな人間らしい生き方を選ぶ権利(Recht auf analoges Leben)」を憲法上明記すべきだというドイツの活発な動きに倣い、日本でも早急にこの権利を可視化すべきだと首唱してきた。

 これまで持続的かつ安定的であったアナログ社会・時代にはあえて意識する必要はなかったが、現代のデジタル暴力社会に至り「人間らしく生きる権利」の必要性・重要性が可視化されるようになった。そこで、新しい社会・時代にも開かれた包括的基本権である「幸福追求権(憲法13条)」を受け皿的に活用する必要が出てきた。

 最終的には、人間・個人の尊厳、自由と平等を保障する憲法に、より高度な規範として「デジタルを強制されない権利」を明記すべきだ。

権利の具体化による法的救済

 この始源的権利から、デジタル暴力社会・時代ならではの様々な侵害場面に即して、より具体的な権利が導出されよう。

 たとえば、「デジタル・タトゥー」(ネット上に一度公開・拡散された情報が半永久的に残る現象)との関係ではEU規則で認められた「忘れられる権利」、「24時間365日の過酷なデジタル労働」との関係ではフランスで認められたのを皮切りに日本でも議論が始まった、デジタル時代に人間らしく働くための「(オンラインで)つながらない権利」、日本でも「声を生成するAI」との関係で声優たちが声を上げた「声の人格権」、さらに「デジタル遺品(死者のSNSアカウント等)の相続可能性」との関係では「(デジタル通信の秘密も含む)デジタル・プライバシー権」、「AIの暴力的進化」との関係では人格的尊厳を守り人間・個人のもとに「データ主権」を取り戻す「AIに無断学習・生成されない権利」、「人間の認知・思考の自由」を死守する「AIの使用を強制されない権利(AIを使用しない自由)」などといった具合である。

 世界的に議論されるSNS利用の年齢規制も、「子どもが発達段階にある人間らしく成長する権利」に関わってこよう。「無限スクロール」や「動画の自動再生」技術により刺激の強いコンテンツを延々と求め続ける「ドパガキ」(ドーパミン中毒のガキを短縮したネットスラング)は、一瞬たりともデジタルから離れられなくなっている。だからこそ、直近EUは、SNS利用について、13歳未満の禁止を前提に、成長段階に合わせて適切な安全設計を施させつつ、制限解除を行う方針のようだ。子どもを保護するために、法規制でSNS企業にプレッシャーをかけていく。

最悪の実体験としての「きょうぽ」

 ところで、筆者の住む京都市では今年8月から、物価高対策として「京都ポイント(きょうぽ)市民生活応援 デジタル地域ポイント給付事業」が始まった。5000ポイントを獲得するには、効率性重視のためアプリをダウンロードして手続を行うことが基本であり、しかも「本人確認」と称してなぜかマイナカード必須だ。

 それではスマホを持たないとカミングアウトさせられた筆者は、どうすればよいか。区役所で対面手続をする必要があるが、こちらもまたマイナカード必須だ。

 行政は、財政難・人材難から行政効率化のためにオンライン化を促進したり、地域経済活性化の名目でスマホ・アプリの活用へと誘導したりしてくる。住民サービスの向上という点で、それを端から否定するつもりはないが、「利用できる技術、環境を持つ人だけを対象とするものではなく、すべての市民が遍く公平にアクセスできる」という行政サービスの本質を見誤ると、「デジタル・バリアー」を生んでしまい、致命的だ。

 この「きょうぽ」は、物価高対策にかこつけて事実上、本来任意取得であるはずのマイナカードの取得を暴力的に進める政策だ。この事業の開始前に懸念を感じ取ったため、担当部署に海外の事例や法律上の問題点を含め丁寧に指摘したつもりだったが、力不足から最悪の結果を迎えた。まさに「行き過ぎたデジタル・ファースト」+「マイナカードの取得強制」という悪手のタッグにほかならない。取得強制などしていないと嘯(うそぶ)くが、マイナカードがないと当該給付を受けられないのだから、詭弁でしかない。

 お盆明け平日の暑い昼に申請窓口を訪れたら、1時間待ち。前の夫婦も、諦めて帰る始末。これでは事実上のデジタル強制だ。区役所で担当業務を行うのは、市から委託を受けた民間事業者。区役所はただ「場所貸し」をしているだけ。順番が回ってきたら、マイナカードの暗証番号の入力だが、はてさて覚えているのだろうか。待たされた挙げ句、マイナカードが必須だと聞かされて、未取得者が激怒する悲惨なトラブルも容易に想像されよう。

 やむなく市役所の担当部署にまで赴いて、市民の不満・苦情をどの程度把握しているのか尋ねたら、その日1日の処理件数の報告が中心。整理券すら取らず諦めて帰ったらその人数すら把握されない。

 にもかかわらず、この「きょうぽ」の総括は、これだけマイナカードの取得率を上げることに成功したとして、自画自賛のうちに終わる可能性が高い。仮に、登録したアプリ経由でアンケートを取ったら、きっと「便利だった」との回答が大半となろうが、それはそうだろうとしか言いようがない。

 そもそもポイントを受け取らない人などほぼ皆無であろう。市民全員に、これまで通り同じ京都府下の近隣の亀岡市のように住民基本台帳をもとに速やかにクーポン券等を郵送すればよかっただけの話だ。まさに「デジタル不便」である。京都市の煩雑な手続のせいで、給付を受けられなかった人たちがいたとすれば、物価高対策が届かなかったのだから、それこそ大問題だ。総務省に問い合わせたところ、当該事業は各自治体に委ねてあるという返事だ。責任逃れを決め込んで、事実上丸投げしている。

 この「きょうぽ」の本質的な問題は「市民不在」ということだ。現場に立ち戻れば、窓口に投書箱を置いたり、長時間待たされた人たちから必ず満足度・意見を聞いたりする仕組みを用意し、当該事業を批判的に総括すべきだろう。そもそも事業の原資が税金である以上、私たちの払った税金が事実上戻ってくるだけなのに、デジタルツールの使用を事実上強制して選別する。バカバカしく腹立たしいことこの上ない。この心の叫びを然るべき方法で結集して声に出すことが重要だ。

 この「きょうぽ」は、スマホを持てない・持たない、使えない・使いたくない人たちや、マイナカードを様々な理由から取得しない人たちを狙い撃ちにした、まさに「デジタル・ハラスメント」でしかない。行政が旗振り役となって人為的に「デジタル・デバイド」を拡大させているのだから、始末が悪い。本来、行政が果たすべき役割は、真逆のものであるはずだ。

陳情書の提出

 8月上旬、「きょうぽ」の申請方法の公平性確保について陳情を行った。

 その内容は、「㈠マイナカードを保有していない市民でも申請可能な方法を直ちに設けること。また、上記カードを使用しない申請に係る費用が追加的に発生した場合であっても、当該方法を選択した市民に転嫁しないこと。 ㈡マイナカードの取得が事実上の給付条件となる運用を直ちに見直すこと。㈢公費による給付事業について、デジタル手続の利用能力によって市民間に不合理な格差が生じないよう制度設計を行うこと。㈣本事業について、マイナカード制度の任意性、行政の公平性及び憲法14条との整合性を踏まえ、速やかに再検証し、必要な改善を直ちに行うこと」である。

 なお当該書面の作成にあたって、文章・論点整理を目的に、生成AIの補助的利用を試してみた。間接民主主義下において市民の声を直接届ける「陳情」制度がありながら、書面作成などのハードルが高いと「絵に描いた餅」でしかない。この場合にこそ、能力・情報格差を埋めるべく実践的に生成AIを活用すべきであると考えたからだ。

シン・ラッダイト運動のススメ

 デジタル社会に盾突く行動は、かつてのラッダイト運動を彷彿とさせるかもしれない。労働組合もなかった時代に、勇猛果敢に立ち向かったという意味で同視されることは光栄だ。ただ、最終的に暴力に訴えかける輩が出てきたため、世間から敬遠されてしまった。

 だからこそ、今回はデジタル強制が暴力的に進む社会に対して、法的根拠・裏付けをしっかりと示した上で、合法的に行うことを旨とし今流行の「シン」を付けて、「シン・ラッダイト運動」と呼び連帯的抵抗を促したい。後ろ指をさされぬよう、現代の「デジタル強制の迷宮」からの脱出をめざして、法的根拠・理屈と正義公平の感覚でアリアドネの糸を編み、手渡す必要がある。

デジタル・デバイドを過酷にする高齢者支援事業

 高齢者が取り残されないよう「デジタル・デバイド」を解消する施策として、行政が、初めてスマホを持つ人たちを対象に購入費を支援するとともに、その後の相談体制をも準備する事業を目にする機会が増えつつある。

 一見すると素晴らしいもののように思えるが、一定数いるはずの「デジタルについていけない人たち」にとっては、今後デジタルに対応できないのはすべて自己責任と言われかねず、一段と「デジタル・デバイド」が過酷になろう。

 デジタル化が暴力的になると、「アナログの選択肢を残してほしい」と願う人たちに対して、「ついていけないお前たちが悪い! デジタル・リスキリングに励め! 残してやってもいいが、割高なコストはお前たちが負担しろ」という罵詈雑言が容赦なく浴びせられる。この乱暴な自己責任論・原因の内在化という論理の怖さを認識すべきだ。

 このような論理が、たとえば「グローバル化」に対応すべく「英語を公用語にする」と言われ、国際化に適用されたらどうであろうか。義務教育で3年間も学習し、その後いくらでも勉強しようと思えばできたわけで、喋れないのは怠けていただけ、と言われているも同然だ。通訳を雇うコストも、自己負担が当然ということになる。

 この冷徹な自己責任論を自分事として受けとめて考える必要がある。私たちは、「ダイバーシティ」に配慮した「インクルーシブ」社会をめざすのではなかったのだろうか。

アナログ生活基本法の制定の必要性

 今後さらに超高齢化が進み、日進月歩どころか秒進分歩のデジタル技術についていけなくなる人たちが急増すると予想される中、「誰も取り残さない」ためにはどのようにすればよいだろうか。哲学者ジョン・ロールズの言う「無知のヴェール」、つまり、自分が社会の中でどのような立場になるかを一切知らないという前提状態で、社会での公平なルール・仕組みを考えてみることが大切だ。

 憲法上保障された人間・個人の尊厳、生存権・福祉国家原則、平等原則、行動の自由等からすれば、とくに行政サービスや社会インフラ・重要な生活関連のサービスについては、「完全デジタル化」は絶対許されない。社会生活からの排除に直結するからだ。具体的には、現金払い・紙による申請・対面(窓口)対応・郵送受付・電話対応など、アナログの選択肢を残存させることはきわめて重要である。「最良のバリアフリー」であり、「アナログは福祉」と主張されるゆえんだ。

 そこで、アナログな人間が、デジタル暴力社会において「人間らしく生きる」ことができるよう、具体的な法律レベルでも保障・実現すべく、最近主流の「アナログ規制」とは真逆の、「デジタル規制」をめざす「アナログ生活基本法」の早急な制定が強く要請される。仮に、デジタル化社会を進めていくにしても、必ずアナログの選択肢を残存させておかなければならない。たとえスマホ等がなくてもあらゆる社会生活に等しく参加できる状況の確保を国家・行政のみならず社会インフラ企業にも義務づける法律だ。

 行政サービスを例にすれば、㈠従来通りの書類に手書きか、㈡窓口の職員が聞き取りデジタル入力を代行するか、㈢デジタル入力の方法を住民自ら利用するという3つの選択肢を同じ手数料で準備することだ。

アナログの選択肢を残存させる意味

 デジタル化を全否定するわけではない。重要なのは、「あるがままの人間」を受け入れる、「優しいデジタル化」の実現ではないだろうか。デジタル化によって、「生きづらさ」を感じる社会であってはならないはずであり、その解消に向かうべきだ。

 人生最大の楽しみは、「選択の自由」ではないだろうか(この楽しみさえも、私たち人間は「AIエージェント」に委ねようとしてしまっているが……)。しかし、デジタル暴力社会は、「アナログな生き方を選ぶ権利」を奪う。もはやデジタル世界の中でしか生きられず、アナログ世界の住民はデジタル世界への移住を強いられ、選択の自由はデジタル世界の中だけの話となる。そもそもどの世界で生きるかを選ぶ自由がなく、アナログ世界を楽しむ「アナログ道楽」という選択肢を選べなくなる。国家が、デジタル、アナログの選択肢の優劣を決めるべきではない。私たちの自己決定こそが尊重されるべきだ。

 「ギュられる」(AIの進化により仕事や役割を奪われるという意味のネットスラング)ことを不安に思うZ世代では、ゼロ年代のライフスタイルに魅力を感じ、あえてデジタル・デトックスを心掛けて自分らしくアナログな生き方も楽しむという「Analogmaxxing」(アナログ達人というネットスラング)をめざす人たちが増えているそうだ。自らの意思・趣味趣向で、デジタルとアナログの距離感をはかり、バランスをとろうという、素晴らしい動きだと思う。このような意味でも、アナログの選択肢を残すという「アナログ文化の継承」は欠かせない。

 革新的なデジタル文明から伝統的なアナログ文化をいかにして守り継承していくかが、今後重要な課題となろう。

あらためて政治の役割が問われる

 政治家たちは、AIを積極的に活用した資料作成などのサポートを受けることに前のめりで、官僚からAIにパラサイト先を乗り換えて楽をしようとする。デジタル利権も絡んだ国会改革の流れは、加速していきそうだ。

 翻って、「空回し国会」をしている政治家こそが、民主主義の維持・実現にとって最も非効率で不要な存在のようにも思える。いっそのこともう「AI議員」でよいのではないか、という声まで聞こえてくる。本会議場などでデジタル機器の通信利用を解禁したら、「三つ子の魂百まで」、どうなるか想像は容易だ。

 この由々しき現状において、デジタル・AI化に刃向かう「アナログの選択肢を残存させる法制化」をめざす活動は、険しい道のりとなろう。この場面でこそ、「シルバー・デモクラシー」の底力に期待したい。

 最後に、言わせてほしい。「人間らしく生きる権利」を侵害された側が、なぜ平身低頭して、平然と何食わぬ顔で侵害した国家・行政機関などに、「アナログの選択肢を残してほしい」と手間暇かけて懇願せねばならないのか。常日頃から苦々しく、忸怩たる思いだ。

【編集部より】著者による本テーマについての書籍が来年、地平社より刊行予定です。楽しみにお待ちください。

臼井 豊

立命館大学法学部教授。博士(法学)。著書に『デジタル「強制」社会への警鐘・抵抗――アナログな人間らしい生き方を選ぶ権利を求めて』(日本評論社)、『デジタル遺品研究――「デジタル時代の死」と向き合う』(成文堂)など。

2026年10月号(最新号)