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今の若者は「自分本位」?
「私が動けば社会を変えられる」――そんな感覚を持っている若者がどれだけいるだろうか。
国立青少年教育振興機構「高校生の社会参加に関する意識調査報告書――日本・米国・中国・韓国の比較」(2021年6月)によると、社会参加への意識は4カ国ともに高まっており、「私の参加により変えてほしい社会現象が少し変えられるかもしれない」と答えた割合は2008年の調査より各国で増加している。学校では生徒の意見を聞いてほしいとする割合が4カ国とも8割を超え、家族の意思決定に自分の意見を伝えたいという回答も7割を上回るなど、参加意欲そのものは全体的に底上げされている。一方で、「社会のことはとても複雑で、私は関与したくない」「私個人の力では政府の決定に影響を与えられない」と答えた割合も2008年比で増加しており、意欲と無力感が同時に高まるという矛盾した傾向が見られる。
特に日本では、「自分の参加で社会を変えられる」と感じる日本の高校生は18.3%と4カ国中最低水準にとどまり、社会参加への効力感の低さが際立つ。4カ国比較では、部活・クラブ活動や学校行事への参加率は最も高く、生徒会役員や部長経験者も約4割にのぼる。しかし、生徒自治活動に「参加したい」と答えた割合は40.2%と4カ国中最低であり、行事や部活には熱心でも、意思決定や自治的な活動には消極的という傾向が見受けられる。学校外の活動においても、日本の参加経験は4カ国中最も乏しく、「寄付・募金」「環境・自然保護」「社会福祉」などの公益的活動への関与が特に低い。趣味やアルバイトへの関心は高い一方、「政策に対する意見表明」への関心は4カ国中最低水準に留まっている。
なぜこのような状況になっているのだろうか? 一つの理由として、声を上げても現実が変わらないという経験の積み重ねが生み出した諦めの反映だと考えられる。「実際に校則が生徒の意見を反映している」と答えた日本の高校生は2割未満に留まり、意見を表明しづらい理由として「しても何も変わらない」を挙げる割合が4割を超える。この数値は今の日本社会で子どもがどのように育つのか? を反映している。
小さい頃から親や幼稚園・保育園の先生が何を今するべきか、指示をしながら時間を過ごす。小学校に入れば、先生の言うことをきちんと聞き、宿題を期限内に出すことを早くから求められる。忘れ物や期限遅れなど指示に従えなければ、全体責任だとしてクラスの問題にするような教室運営も存在する。そして、東京など首都圏を中心に小学生のうちから中学受験対策がはじまり、放課後も塾通いの日々となる。自分が何に興味があるかを探求したり、日々の生活や友達や自然との触れ合いの中で疑問を感じたり発見をしたりするよりも、受験に通るための暗記や訓練の時間が多くなる。さらに中学に入れば、高校受験のための内申(学校での参加態度などが教師からの評価に反映される)を気にかける生活が待ち受ける。この傾向は大学受験の手法としてAOなど推薦入試が増えている状況によって、学校の先生に評価される子どもでいなければならないと、大人の期待を読み取ることを求められる面が加速されているという懸念もある。
問題の本質は若者の意識の低さではなく、参加しても影響力が発揮できない構造的な環境にある。また、社会参加を促すには、若者が声を上げた結果が実際に反映される場と機会をつくること、それと同時に子どもにも余暇と余地が不可欠であり、制度や大人側の受け止め方、子どもの自由時間増加などの変革こそが必要である。
私の体験から
1998年3月、会社員と専業主婦の長女として生まれた私は、3歳から神奈川県平塚市で父親の実家の近くで育った。周りの友達の多くが大企業就職を選ぶなか、社会的な活動をして自分でNPOをつくり就職せずに生きる選択をしていることについて、「親はどんな教育を?」と聞かれたりすることがあったが、私は、いわゆる「普通の家庭」だと答えてきた。社会参加という観点では周りに政治家や政治に熱心な人もおらず、親はおそらく基本的には毎回「投票に行く」家庭だった。勉強でも習い事でも「やりたい」と言ったことに経済的にも精神的にも支援があり、両親・親戚の仲も良く情緒的に安心できる環境に恵まれていた。大人になるにつれてその「普通」だと思っていた環境が、どれだけありがたく当たり前なことではないのか、学んできたことでもあるのだが、やはり、私の活動のモチベーションの源泉にある「パブリックマインド(公共心)」は家庭だけで育まれたものではないと考えている。
「パブリックマインド」とは、社会や周りが幸せにならなければ、自分だけが幸せになることはできないという感覚、と私は定義している。私がこの「パブリックマインド」に関心を持ったのは、平塚市の公立の小学校・中学校から高校受験で東京の私立進学校に進学したあとの違和感からだった。
中学時代までの私は、地域や他の人たちの生活環境にも関心の目が向き、行政が行なう青少年向けの施策にも関心を持って参加するような子どもだった。
しかし、高校に入り、勉強や長い通学時間も含めて忙しすぎる高校生活のなかで関心が薄まっていくのを感じていた。また、時間だけでなく考えることも触れる情報も「どう自分がいい大学に行くか」ということが中心となり、恵まれた子たちが多く通う学校の中で、小中学生の時は当たり前に考えていた様々な家庭環境の課題や経済格差、障がいを持つ友達のことなどに目が向かなくなっていった。自分が評価されるかわからない不安のなかで生きなければならないしんどさとともに、公共心が欠けていく自身の在り方に漠然とした違和感を持っていた。
大きな困難に直面せず、受験勉強に集中できる環境にあった人たちが「良い大学」に進みやすく、制度や仕組みをつくる人たちになっていく社会構造。また、私立の進学校にいる生徒たちは、おそらく収入も高い納税者になっていくと考えると、「ここで育った人たちは大人になったあと、税金を払う意義を感じられるのだろうか?」そんな疑問を抱くようになっていった。
この疑問への答えが見えてきたのは、大学進学で経済学部を選び、「財政社会学」という学問に出会い、どのようにこの社会を自己責任で経済的な自衛を求める社会から、税で支え合い不安の少ない社会にすることができるのか、を考えることができると知ってからであったが、子どもの育つ環境次第で考えが変わることを深く感じていた。
そして振り返ってみると、小学生の時に参加した「青少年議会」という子どもに議員体験をさせる夏休みの市の取り組みや、中学生の時に参加した「姉妹都市交流のアメリカへのホームステイ」、子ども会・自治会のボランティア活動や地域イベントの企画など、小・中学生の時に私は様々な機会に恵まれていた。このような経験は、税金が原資となる行政、そして(多くは専業主婦の母親たちが支えていた)地域のボランティアによって担われたものであった。
自身の社会との関わりを深め、それが思考の土台となっていることを考えた時、私の経験は周りの友人と比較すると少数派だと感じることがある。また、共稼ぎ世帯が増えるなかで専業主婦のボランティアありきで運営されていた様々な施策はつづかなくなるなど、状況の変化が見られる。
今の子どもたちの放課後は、民主主義の担い手を育てるための土壌としてどれほど肥えているだろうか? 今の若者は社会の写し鏡である。若者のあり方を嘆く前に、どんな環境で子どもたちが育っているのかを一緒に考えたい。勝ち負けではなく、誰もが負けない社会をつくるために。




