超競争社会を生きる若者たち
「ヘル朝鮮」という言葉が韓国の若者たちのあいだで広く使われるようになったのは2010年代半ばのことである。「ヘル(Hell=地獄)」と「朝鮮」を組み合わせた造語で、「地獄のような韓国社会」を意味する。ここであえて「韓国」ではなく「朝鮮」と呼ぶのは、努力や能力よりも生まれが人生を左右する社会になったという若者たちの実感を表現するためである。
「ヘル朝鮮」には、人生のあらゆる場面で過酷な競争を強いられる社会に対する若者たちの不満と絶望が込められている。良い大学、良い仕事、安定した雇用、住宅、そして「普通の人生」をめぐる競争のなかで、脱落することへの恐怖や将来への不安が広がったのである。しかし、若者たちが「地獄」と感じていたのは、単に貧困や所得格差そのものではない。むしろ、人生を左右する重要な資源を獲得するために絶えず競争を強いられ、その競争から降りることも困難な社会そのものだった。
韓国の若者にとって重要なのは、「仕事があるか」ではない。どのような仕事から労働市場に入るのかが、その後の人生を大きく左右する。大企業と中小企業、正規職と非正規職とのあいだには大きな格差が存在し、それはしばしば能力や成果の違いとして正当化されてきた。最初の就職先は、その後の所得や昇進機会だけでなく、住宅取得や家族形成の可能性にも影響を与える。そのため若者たちは、少しでも有利な位置から労働市場に参入するための激しい競争にさらされる。大学に入ってからも熾烈な競争は続く。大学で何を学んだかよりも、就職市場で評価される「スペック」をどれだけ積み上げられたかが問われる。資格、語学能力、インターン経験、各種試験の成績。若者たちは自らを絶えず「市場価値」のある存在として磨き続けることを求められるのである。
こうした超競争社会のもとでは、失業や不安定雇用、住宅難や将来不安といった社会問題までもが、個人の責任へと転嫁される。ここに能力主義の問題がある。能力主義は「努力すれば報われる」という希望を与える一方で、競争の前提にある社会的不平等を見えにくくする。同じ競争に参加しているように見えても、家庭の経済力や教育環境、利用できる情報や人脈は大きく異なる。にもかかわらず、その違いは見えなくなり、結果だけが能力や努力の差として理解される。こうして若者たちは、自らの生きづらさを社会の問題としてではなく、自分自身の責任として抱え込むことを余儀なくされる。
もっとも、このような見方に対しては異論もある。社会学者キム・チャンファンは、韓国社会の不平等が拡大しているという通念に疑問を呈している。可処分所得のジニ係数や青年層内部の賃金格差などの指標を見ると、所得や賃金の面での不平等は拡大しておらず、むしろ縮小しているという。さらに彼は、競争が激しくなったからといって、それだけで社会が以前より不平等になったとは言えないと主張する。より多くの若者が大学に進学し、より多くの人が良い仕事をめぐる競争に参加するようになったからこそ、競争は激しくなった。したがって、競争の厳しさそのものを不平等の拡大と結びつけるべきではないというのである(キム・チャンファン2025)。
これに対して社会学者キム・ソンギは、若者たちが問題にしているのは所得や賃金の差だけではないと指摘する。どのような家庭に生まれ、どのような教育を受け、どのような仕事に就き、どのような住宅にアクセスできるのか。若者たちが感じている不平等とは、収入の差以上に、人生の選択肢や可能性の差ではないかという。さらに彼は、不平等が縮小しているという統計だけが強調されることで、若者たちが日々経験している不公平感や閉塞感そのものが見えなくなってしまうことを危惧する。 所得や賃金の格差だけを見れば、不平等は縮小している。しかし若者たちが直面しているのは、競争への参加条件そのものの違いや、その競争の結果によって開かれる人生の可能性の違いなのである(キム・ソンギ2025)。
「ヘル朝鮮」という言葉の背後にあったのは、競争の厳しさそれ自体だけではなかった。努力と能力によって人生が決まるとされる社会のなかで、実際には家庭背景や経済的資源によって人生の選択肢が大きく左右される。こうした現実に直面するなかで、一部の若者たちは、自らの生きづらさを個人の問題ではなく、社会的不平等の問題として捉え始める。彼らが問い始めたのは、自分の能力の不足でも自己責任でもない。その競争そのものは本当に公正なのか、という問題だった。



