〈本の概要〉一つの民族が負った巨大な傷を前に、石のように眠り込む世界。私たちはどこへ向かうのか。パレスチナをめぐる十の問い、十人の物語。人びとが異質な他者への共感共苦を通じて、人間という仲間として再び出会うための希望の書。


※この記事は、2026年8月4日発売『世界が眠っているあいだに』(地平社)の一部を掲載しています。

ヒンド
―パレスチナにおいて子ども時代とはどういうものか

恐怖心をもたずにいられるようになること、これが人間の最後の目標なんだ。
―イタロ・カルヴィーノ『くもの巣の小道』(米川良夫訳、福武書店)

二〇二四年一月末。ヒンド・ラジャブ、六歳。四人のいとこたちと身を寄せ合いながら、おじの車の後部座席に縮こまっている。ガザ地区西部に何度目かの退避命令が出されてまもなく、母親ときょうだいたちは徒歩で逃げ出したが、雨が降っていて寒かったためこの子はおじ一家と一緒に車に乗せられたのだ。
昼下がり。爆撃音が運転席の中まで入ってきて、車列は渋滞で立ち往生したかのようだ。何か問題が起きている。おじとおばはそう感じ、苛立って、激しい口調で話す。タッル・アルハワー方面のガソリンスタンドからそう離れていない地点で、車はイスラエル軍の砲火の雨に見舞われる。それから、現実とは思えないほどの寒気に。ヒンドは周りを見る。誰一人声を発さず、みなその場にくずれ伏している。赤新月社の窓口担当者と通話しているあいだに撃たれてしまった一四歳のいとこラヤーンの指のあいだから、確かに震える両手で電話を取る。ヒンドは「ほかのみんなはしんじゃったか、もしかするとねむってるかも」と説明し、助けてほしいと懇願する。「せんしゃがちかくにいる。うごいてる。たすけにきてくれませんか。すごくこわい」
電話の向こうにいる窓口担当者は、ヒンドがどれほどの危険の中にいるかが分かるので深く心配して、「愛しい子」と愛情を込めて呼びかけ、一人にしないためにヒンドとの通話を続ける。
三時間の通話後―赤新月社の同僚たちが車の現在位置を突き止め、少女を避難させる許可を取るべくイスラエル当局と交渉するのにそれだけかかったわけだが―窓口担当者は、救急隊員が二人、助けに向かっていると言ってヒンドを安心させる。その痛切な通話の記録は、一本の回線につなぎとめられた少女の命と共に、歴史に刻まれた。きっといつの日か司法の手が、虐殺について責任を取るべき者たちを処罰するだろう。ヒンドは最終的に、イスラエル軍に殺害された。
一二日後、ヒンドは遺体となってその車の中で発見された。車には何者かによって三○○発を超える弾が撃ち込まれていた。そう遠くないところに赤新月社の救急車が停まっていて、中には救急隊員たちの遺体があった。間に合わなかったのだ。ロンドン大学教授エヤル・ヴァイツマン率いるフォレンジック・アーキテクチャー英国チームの調査で、射撃の距離と動向を再現したところ、戦車から発砲したイスラエル兵たちが車に乗っていた二人の少女を含む民間人の存在を十分に視認できなかったということは「ありえない」と分かった。

ヒンドの物語は、二〇二三年一〇月七日の翌日からガザ地区の住民に対してイスラエル軍が行ってきた攻撃の残虐さを象徴するものとなった。だが少女が殺されたのは一〇月七日から三か月も後のことだ。このときにはイスラエルはすでに二万六〇〇〇人超を殺害していた。このすべてがどうして容認されえたのだろうか。今日、すなわち私が本書の原稿の見直しを終えようとしている二〇二五年三月現在、確認された未成年者の死者数は一万七〇〇〇人超に達し、このうち生後一年未満の子が数千人いるというのにまだ、処罰されるべき者が処罰されずにいる状況がまかりとおっており、イスラエルによって駆動される死の機械が抑えようもなく進撃を続けている。こんなことがいかにして可能なのか。
その答えは何十年にもわたりイスラエル人とパレスチナ人のあいだの力関係の認識を歪めてきた狡猾な言説操作の中に隠されている。
直近の三〇年間、この語りによって多くの人が、パレスチナ人は自業自得でありイスラエルの存続に関わる脅威である、と信じ込むようになってしまった。子どもでさえも? そうだ、子どもでさえもだ。ひょっとすると特に子どもこそが脅威だと考えられているかもしれない、なぜなら、二〇二三年一〇月七日から始まったイスラエルによる攻撃のロジックに従うと、パレスチナ人一人ひとりの生命が、みな将来イスラエルの存続にとって危険をもたらす可能性として見なされることになるからだ。
こうしてパレスチナ人の子どもたちが何人殺されただろう。罪を犯している人間が処罰されず、家族と地域社会の全体が苦痛に苛まれている中で。何万人も。ヒンドの物語は、パレスチナではまれではない。二〇二三年一〇月七日の数か月前、ムハンマド・タミーミーは、占領下のヨルダン川西岸地区で父親と車に乗っていたとき、いわゆるイスラエル防衛軍―実態としてはイスラエル占領軍と呼ばれたほうがよさそうなものだが―の部隊に、頭部を撃たれた。二歳だった。例によって、誰一人有罪判決を受けていない。
これが、パレスチナでの子ども時代だ。

エルサレムで私と夫マックスが暮らしていた家の庭の裏手の小さな丘に、とても大きな桑の木が一本立っていた。実に実り豊かで、何か月にもわたって実をつけ続けるのだ。あの木の下にはいつも、落ちた桑の実が絨毯のように広がっていて、子どもたちがよく拾いに来ていた。
家のすぐそばの石垣に、金網を張った格子が一つ取り付けられていた。何年も前にとりあえず仮に設置されたのだろうが、当時まだそのまま残っていた。子どもたちは桑の実を取りに行くためどうしてもそこを通ろうとして、その身で狭い穴をうがってはもぐりこんでいた。ある晴れた日にそれを見て私は言った。「ねえみんな、桑の実が欲しいなら、私に頼んでくれたらドアを開けてあげるよ、そうすればその穴をくぐらなくて済む」。多くの子らは私が何を言ったのか分からずにいた。英語を話せる子がいなかったのだ、ただ一人、暗い色の大きな目の男の子を除いては。私はその子が近所で友だちや双子の妹と一緒にいるところを見たことがあった。
「こんにちは」と、今度はまっすぐその子に向かって私はもう一度話しかけた。「みんなこの辺の子だよね、遊んでるのを何度も見掛けた。桑の実が欲しいなら気兼ねなくうちのチャイムを鳴らしてよ、そしたら金網でけがをせずに済むよ」
その子の返事は礼儀正しくも固い意志をにじませたもので、私ははっとさせられた。
「いえ、けっこうです」と彼は言った。「あなたに門を開けていただくのは、ぼくらのためになりません。これまでどおり、ぼくらはこうやって這い進んで桑の実を取ります」
一一歳の少年ムハンマドは、早くも相当しっかり自分の考えをもっているようだった。この子の家族は東エルサレムのシャイフ・ジャッラーフ地区に住む有力な一族で、イスラエル人入植者たち―イスラエル軍の支援によりヨルダン川西岸地区の入植地に住み着く武装した民間人たち―の傍らで住宅の強制収用に抵抗していた。その住宅は、ムハンマドと妹ムナーの祖母リフカが一九四八年、(今日イスラエル領となっている)ハイファを追われ、難民として逃げ込んだ場所だった。長い法廷闘争の末、二〇〇九年、一家の土地や家屋のうち主たる建物はイスラエル人入植者に占拠されてしまったので、ムハンマドをはじめとするエルクルド家は畑の中に家を建て、そこに親戚全員で暮らさなければならなくなった。
ムハンマドの返答に私がはっとさせられたのは、一一歳の男の子が―いや七歳にせよ、一二歳にせよ、一四歳にせよ―権利、場所、アイデンティティについてあのような意識をもっているとは想像していなかったからだ。だが占領下で育ったパレスチナ人にとっては、そして同じようにパレスチナ周辺の難民キャンプで生まれた大勢のパレスチナ人にとっては、こういうものなのだ。自分たちが根を張った土地が足元から絨毯のように引き抜かれ続けているのを見ながら、それでも故郷を、尊厳を、自分の年頃にもっとふさわしいはずのすべてを追い求める無限の闘志を養い、何世代もの人びとが育ってきた。パレスチナ人は子ども時代を奪われており、自分たちの年頃には免除されるべきはずの心配ごと、不安、恐怖、責任を負わされながら、子どもの身体ですでに大人になっている。
私はこのため、パレスチナ被占領地の人権状況に関する国連特別報告者として、二〇二三年、パレスチナ人の子ども時代をテーマとする第三報告書を作成することに決めた。その中で私は、パレスチナの現実を生々しく説明する英語の言葉を繰り返し使っている。unchilding、つまり「子ども時代を奪うこと」だ。このテーマを選んだのは、パレスチナの子どもの暮らしを形作っているものを統計や法と一緒に説明することで、状況の深刻さについて読者の理解を促せるのではないかと期待していたからだ。
調査を実施したときは、現況とはまったく異なっていた。報告書の発表は二〇二三年一〇月七日から二週間後のことだが、実際に書き上げていたのは二週間前だった。すでに恐ろしい状況だった。
秋のあの時点で、二〇〇八年から二〇二三年九月までの一四年間で殺されたパレスチナ人の子どもの数は、一四〇〇人超という耐えがたいものだった。その一人ひとりが、一つひとつの小さな宇宙が、永遠に抹殺されてしまったのだ。そして二〇二三年一〇月七日から二〇二五年三月まで、身の毛のよだつこの数は一〇倍になった。一七か月間で殺された子どもは一万七〇〇〇人超。這い歩き、発語、遊びができるようになるより前に命を奪われた新生児は何千人にも及ぶ。
ガザでは二〇二四年八月、ムハンマド・アブー・アルクムサンが新たに生まれた双子のために出生証明書を申請していたところ、電話がかかってきた。きみのアパートが爆撃された、きみの子どもたちとパートナーは病院にいるというのだ。子どもたちのためやれることは何もなかった。生まれて目を開ける前に殺されたのだ。
これが、パレスチナでの子ども時代だ。


二〇二三年、秋の国連総会への報告書提出に向けて調査を実施する目的で占領地へ行くのに必要な許可をイスラエル政府から得られなかったため、私は別のアプローチを採ることにした。パレスチナの民間人団体やその他の協力者たちのサポートを得て少人数グループでのディスカッションの場を設け、オンラインで子どもたちに聴き取り調査をさせてもらった。
あの時期、私は家族と一緒にシチリアの義父母の家へ帰省していた。毎日午後になると、子どもたちと昼食を取り海にごく短時間もぐってから、支度をして海水浴場のテラスへ上がり、そこで空いているわずかなコンセントにPCをつないで、インタビューを始めた。毎日、予定よりも数時間延びた。
聴き取り調査を実施した青少年のグループは、しっかりとした教育を受けて規律を身に付けていることがすぐに分かった。年齢層や地理的位置ごとに、子どもだけでなく保護者や付添人まで、これを機に熱心に自分の経験と証言を私と共有してくれた。テーブルを囲んで集まったり、(ジェニーンの子どもたちの場合のように)ときには自分たちよりも大きなどっしりとした座席に座ったりして、画面の前でみな極めて思慮深い姿勢を示していた。特にガザの場合、誰かが翻訳してくれていたときでも、子どもたちの大部分は英語をよく話せたので、私も誰かをあいだに挟まず直接やりとりすることができた。
あの度重なる面談で私は命の、生命力の、至福の奇跡そのものに向き合っていた。エネルギーと希望によって逆境に立ち向かうかのような雰囲気。終わりなき占領下のあらゆる困難のただなかで―つまり、ガザ地区では封鎖により住民全員をゲットーの囚人とされては絶えず攻撃を仕掛けられていて、またヨルダン川西岸地区ではイスラエル人入植地の隣で土地や生活を荒らされては頻繁に拘禁されたりイスラエル兵や入植者から襲撃されたりしているさなかに―あの夏、私が知り合った子どもたちは、根本的な価値観を、特に学びの場への愛を驚かされるほど貫いていた。この機会のために男の子は上等のシャツに身を包んで髪をよくとかし、女の子は彩り豊かな生地のドレスを着て長い髪をスカーフで覆うかそのまま背後へおろすかしていた。そうして私に語りかける子どもたちの声は、知識を渇望し、未来を希求していた。
これもまた、パレスチナでの子ども時代だ。

特にはじめのうち、 私自身についても、また私たちが無意識に抱きがちな先入観についても教訓となり深い感銘を受けたことがあった。あまり個人的でなくもっと一般的な話題になったときに、子どもたちが極めてしっかりとした基礎知識をもっていたことだ。水、教育、移動の自由にまつわる問題について話すとき、子どもたちは侵害されている権利とその回復について、言わされているのか書かれたものを読んでいるのかと思われるくらいとても入念な言葉遣いで私に語ってくれた。「まるで小さな弁護人だ」と私は思った。だがすぐに、その子らの説明や討論の能力の中にとってつけたところが本当にまったくないことに気づいた。「この子たちは、学校へ行っては遊びながら守られ大切にされる毎日を送る私の子どもたちとは違う」と私は自分に言い聞かせ、その青少年たちはいつも、苦しく恐ろしい経験を自分の身体で生きてきたのだと理解した。つまりあの子らにとって、人権について語ることは、命の叫びに、応答を求める呼びかけになっているといえる。
本来すべての人びとに同じだけ多くの権利が保障されねばならないというのに、こんなことが起きているなんてどうしてありえるのか。それが、パレスチナの子どもたちのあいだで強くこだまする問いであり、しばしば届かないかのように思われる正義への訴えである。私の八歳の息子が九九の暗記に気を取られているあいだに、パレスチナの子どもたちは、損なわれている自分自身の実存を、人間扱いされない自分自身の人間性を主張する宣言のように法律の言葉をわがものとしている。だからこそ、矛盾するようだが、子どもたちはまさに自分たちの存在する権利を、子どもである権利を擁護するために、ある瞬間には信じがたいほどの重荷を背負って弁護人そのものになるのだ。
何世代にもわたりパレスチナの社会の中で受け継がれている、古くからの重荷。このせいで、私が思うに、子どもたちのあどけなさの中に、不正義に対するこれほど深く根付いた意識もまた現れていたのだ。そこでは、抑圧の意識に立ち向かうため、一人の子どもにとって超人的な勇気が求められる。絶えざる戦争状態に見舞われ、世界各地へ散らばった他のパレスチナ人たちみんなから隔離され、移動も許されず、人生の中で最もシンプルなことも夢見られないのだ。
私にとってあの日々は葛藤に満ちていた。というのも、私を取り巻く世界から―つまり「子どもたちは食事を取った?」「何か変わりごとは?」「口げんかしてるのは誰と誰?」「隠れてこっそりジェラートを二つも食べてしまったのは誰?」などという問いが最も重要であった世界から、私は数メートルも離れることなく、ガザ市、ハーンユーニス、エルサレム、ベツレヘム、ナーブルス、ラーマッラー、マサーフェル・ヤッタの子どもたちと一緒に過ごし、まったく異なる別次元のことをひたすらに吸収するがままとなっていたから。
珍しくも何度か、当時六歳だった私の息子ジョルダーノが、私が誰と話しているのか見ようとして、その年頃にはよくある自然な行動で、水着姿であることを気にせず近づいてきたことがあった。それである日、ある男子が私に尋ねた。「なぜあの子は服を着ていないの?」
「海辺にいるからだよ」と私は答えた。だが相手はヨルダン川西岸地区の子どもたちで、海を見たことが一度もなかった。
私たちはガザ地区の子どもたちに比べて、ヨルダン川西岸地区の子どもたちと、ずっとたくさん面談を行った。というのも、人や物の移動がずっと困難だったからだ。例えば、バスを手配して子どもたちを乗せるか保護者に同伴してもらう場合、パレスチナ人の移動を「監視する」という目的でイスラエル軍が設置した固定または移動式の検問所をたくさん通らなければならなかった。たくさん会合の約束を取り付けて、一回につきわずか四人か五人の子どもたちと面談するのだが、それもその都度変更があった。私を待つ子どもたちは行儀よく座り、みな興奮し、私に言いたいことを準備していた。好きなだけ話してもらった。私は前もって戦闘行為、攻撃、住宅や病院や学校の破壊、強制追放、殺人、拘禁に関するデータを集め終えていたので、子どもたちには特に自分自身の暮らしについて語ってもらうつもりだった。住み家、遊び、旅行、家族について。私が作成していた報告書が「子どもたちのもの」となるように、そして可能な限り子どもたちの声を発するように。
少人数グループでのディスカッションはいつも二時間を超えて続いた。終わり近く、私たちが互いのことを少しよく分かってきたころ、頃合いを見計らって私はこの質問をしていた。「何か恐れていることはある?」 どうしても、みな死について話すのだった。これらの子どもたちの最大の恐怖は、死ぬことか、両親を亡くすこと。次に、拘禁。その次に、「自分の家を壊されること」。これらこそ、パレスチナの子どもたちが最も多く抱いている心配ごとであり、この状態で成長していくのだ。ただこれだけでも、とんでもなく残酷なことではないか。
「毎日ここで苦しまずに呼吸し、自分たちの土地に住んで留まる権利を勝ち取るため、私たちは闘わなければならない」と言ったラワンは、一一歳。一四歳のアラーウッディーンは「ぼくらはいつでも何かの危険から逃げなければならないんだ、兵士の他に入植者たちもいるから」と言った。
私と話してくれた青少年たちの説明の中からは、暴力や恐怖が何千ものありかたに変化する無数の物語が聞こえてきた。検問所。父親の仕事がなくなる。人前で平手で打たれ、殴られ、衣服を脱がされる。「おまえから土地を奪い、親を辱めてやる」と脅迫される。親が家にいない苦しみ。親が拘禁されたり殺害されたりしているせいで、近いにせよ遠いにせよ親戚に育てられていて、もちろん愛してくれてはいるがママでもパパでもない。
子どもたちの日常は二〇二三年一〇月七日以前でもこうだった。「私たちはどこにいようとあらゆる方向から爆撃されるから、両親が殺されてしまうかもしれないというものすごい恐怖をずっと抱いている」と私に語ってくれたヤースミーンは一六歳。当時すでに、ガザに対する戦争を五回経験していた。一一歳のサーミルはこう語った。「私のパパは入植地の近くで兵士たちに殺されてしまった。暴力的だったと言われて……。私は人生で最も大切な人を亡くした上に、兵士たちは家を奪いにやってきた。まず親を、次に家を奪われて放り出された」。そして一二歳のファーリスは「去年、学校が兵士たちに三、四回襲撃された。催涙ガスを放たれ、実弾を撃ち込まれた。先生たちや友だちの多くはうまく息ができなくなった」と私に話してくれた。
これが、パレスチナでの子ども時代だ。


あいにくパレスチナの子どもたちから子ども時代を奪うものはこれだけではない。子どもたちは暴力を目撃することでその犠牲者となるのだが、その暴力は残虐にも突然やってくるだけでなく、残虐にも組織的に行われているのだ。組織的暴力は、一人ひとりの日常に忍び込み、その輪郭を形作る。私がパレスチナの子どもに関する報告書を書いたとき、負傷し一生の障害を負った乳幼児、親が殺されたか負傷したか障害を負わされた子ども、そして成年か未成年かを問わずトラウマに苦しんでいるすべての人びとのことも念頭に置いていた。この数は絶句させられるが、同時に何も語りはしないので、パレスチナの人びとは統計による陳腐化という危険に長年にわたり抗っている。例えば大学人にして詩人リフアト・アルアライールによってガザで創設された若い書き手たちの組織ウィー・アー・ノット・ナンバーズ(「私たちは数ではない」の意)は、ガザにおけるパレスチナ人の文化、イメージ、希望が終わりなき占領、終わりなき戦争により破壊されていることに対抗して生まれてきた組織だ。
パレスチナの人びとの、特に幼い子どもの生命がまるごと、そこでは破壊に瀕している。そんな生活空間に思いを馳せてほしい。
どの子にとっても家は子ども時代の中心であり、成長し、探求し、夢想することができる安全な隠れ家でなければならない。だがパレスチナでは、家庭の空間の中でさえも、子どもが確実に守られる保証はない。住宅の強制収用や破壊はイスラエルによる占領の一手段となっており、この現実の中で成長する子どもは「ここには自分の居場所がない」という意識を外から負わされて生きていかざるをえない。住み家から引き抜かれたか破壊された一つひとつのレンガは、単に解体された家屋の残骸であるという以上に、人生の、歴史の、打ち消された過去の、そしてまた期待していた未来の破片なのであり、それは子どもたちの心に癒やしようもなく刻み込まれる。このような暴力は人のつながりや地域社会を引き裂き、青年期のあどけなさに不安定な実存の影を投げかけ、深い傷と、ものそれ自体に留まらない喪失をもたらす。
イスラエルの入植者植民地主義は、そもそもパレスチナの地域の残りをしだいに(かつ違法に)併合しようとするものだが、実際のところはこれに留まらず、成長と開発の可能性を抑えつける高圧的環境を作り出している。水や電気といった主要な資源が与えられないために子どもたちとその家族は貧困へ押しやられている。そして隔離と、占領によって課された制約のせいで、ガザ地区でも(二〇二三年一〇月七日の攻撃の前も)、ヨルダン川西岸地区でも、適切な教育や医療の利用を妨げられているのだ。
そういうわけで占領により、パレスチナの人びとの生活はあらゆる面で打撃を受けている。被占領地においては、懲罰としての取り壊しや強制退去によって、極めて多数の世帯が家を奪われており、子どもたちは不安や不透明な見通しに苛まれながら子ども時代を送ることを余儀なくされている。長年にわたりガザ地区が封鎖され―全面破壊までの一六年間まさに天井のない監獄とされ―軍事攻撃を浴びせられてきたがために、不可欠なインフラは破壊され続け、数百万人が人道支援に依存せざるをえない状況に追い込まれた。何世代にもわたる子どもたちが、自分や親戚や友人の住宅や土地を奪われるさまを目撃したばかりか、同胞が常に屈辱を与えられて生計を立てる手段も尊厳も奪われているのをみるトラウマを内に抱え込んでもいる。
今日、パレスチナ人全体の約半数を占める子どもたちは、親世代と同様に、占領下で生涯の全体を送ってきている。何世代もの子どもたちから自己決定権、生存権、安全の保障、尊厳、教育を受ける権利など基本的人権を剥奪し、子ども時代の一日一日をただ屈しないための闘いに変えてしまうシステム。こうした子どもたちは、自宅が取り壊され、学校が破壊され、土地が没収されるのを目の当たりにしながら、暴力に取り囲まれて成人することになる。自宅の残骸のあいだで、ブルドーザーから逃れたおもちゃや本の断片を拾ったり、うずくまる親を慰めたりしながら動き回る子どもたちの姿が、私の記憶に焼きつけられている。
今ではもうはるかに遠く感じられる二年前のあの夏、子どもたちとの少人数ディスカッションのほか、私は大人たちにもインタビューを実施した。対象者は、第一次・第二次インティファーダの時代に未成年であった人や、そのあいだに子どもや孫ができた人だ。明らかになったことの一つは、占領がどれほどますます苛烈になっていったかだ。アフマドは私に語った。「少なくとも、私たちの幼いころ、第一次インティファーダのころは、山々を駆け回ることができた。今そこには隔離壁がある。あまりにもたくさんの検問所がある。もう空間がないんだ」
長年、イスラエル人入植地は絶え間なく拡大を続けてきた。一九九〇年代のオスロ合意から二〇〇〇年代の隔離壁建設まで、ヨルダン川西岸地区で連続する暴力の数々に至るまで、こうした人びとが生きることができる空間は、しだいに狭められ、細かく分断されていった。
子どもたちは想像力を働かせる空間すらも奪われた。それぞれに密閉された領域の中へと詰め込まれてしまったのだ。ここから、私は占領の重要なもう一つの要素に気がついた。監獄空間化である。イスラエル占領下で成長することは、天井のない監獄の中で成長することに等しい。検問所、監視塔、パレスチナ地域の残りを高みから見つめる入植地、何者かを脅威と見なすたびに裁判所の令状なしで行動する武装警備隊。この空間で人が被っている暴力は、物理的のみならず心理的でもある。私は自分が知る子どもたちを思い浮かべて、その多くが自らの土地から去るはめになるだろうと想像する。最終的にもはや将来の見込みがあるとは思われず、夢が残虐な占領によって踏みにじられるその土地から。
大人も子どもも生きることを強いられているこの天井のない監獄の中では、未成年のパレスチナ人被拘禁者もまたぞっとする数となっている。二〇〇〇年から二〇二三年にかけての被拘禁者の総数は一万三〇〇〇人超。そして二〇二三年一〇月以降だけでも、三〇〇人を超えている。拘禁はどんな口実をつけてでも実行されている。一四歳のアビールが語った事例はこうだ。「[パレスチナ人の]ある男の子が道を歩いてたら、[イスラエル軍の]兵士がその子を呼び止めて、その場で尋問して、殴りつけてから、しまいに拘束してしまった。尋問中にズボンを下ろすのを拒んだからだっていうんだ」。私自身もイスラエルの軍と警察によるパレスチナ人への同様の虐待や抑圧を数え切れないほど見てきており、このように恐ろしい事例は初めて知ったことではなかったが、とても若い人からその話を聞くのはつらかった。
私がパレスチナ人の少年少女と少人数グループでのディスカッションを実施した時期、イスラエル兵が検問所で暴力を振るったり、昼夜を問わずパレスチナ人の村を急襲したりすることは、日常茶飯事になっていた。当のイスラエル兵自身が―例えば、パレスチナ人のみならずイスラエル軍にも及んでいる占領の悪影響について世論を喚起するため、被占領地におけるイスラエル軍の虐待を公に非難している元イスラエル兵たちの組織ブレイキング・ザ・サイレンス(「沈黙を破ること」の意)の元イスラエル兵が―数週間から数か月間にわたり毎夜複数回、パレスチナ人の村を襲えという命令を受け取っていたと率直に認めていた。「イスラエルの治安」のため、住民を極度に疲弊させ、退去を自ら決めさせなければならなかったというのだ。

子どもたちとその家族の住宅に関わり毎日その安全と尊厳を脅かす日常的な構造的暴力に加えて、戦争行為、(西岸地区でずっと増加を続ける)武装入植者による虐殺、軍の攻撃といった激しい暴力もまた、合わせて考えなければならない。
毎年、一〇〇人前後の青少年が兵士の気まぐれで拘禁されたり、手足を失ったり、殺害されたりしている。身体的、心理的に深い外傷を受けても、治療や処置が施されない場合がよくある。
そもそも、子どものみならずすべてのパレスチナ人にとって、保護など夢物語である。公的機関にも、その他にも期待できない。子どもたちはこのように恐ろしい暴力に絶えずさらされながら成長するのであり、社会全体がそれに苦しんでいる。何世代にもわたる極めて重いトラウマがある。それを、私は、拘禁されたことがある少年たちと会ったときにも見ることができた。みな、精神的外傷を受けていた。後にリハビリを経てそれなりに回復している子も、その身体に深い痕を負っているものだ。学校に復帰する子もいるが、極めて困難である。あまりにも早く出獄すると、口を割ったと受け取られて、結果的に地域社会の中で除け者にされるからだ。逆に半年、一年、二年耐えると、その時点で英雄となる。だがそれで出獄した場合、おそらくは親が釈放のために金を積んだということだ。
このような体制の中で大人になることは普通のことではない。読者が「暴力の源はどこか」と自問するならば、それを理解するにはただ視野を広げて先入観を脇にどければ十分だ。
オンラインミーティング中に私が聴いた話は、深く印象に残っている。二〇二三年は極めて暴力に満ちた一年だった。イスラエル人入植者がパレスチナ人の村を襲撃し、自動車や住宅を焼き払い、パレスチナ人を殺害した事件が少なくとも一七件あった。二〇二三年夏ジェニーンでイスラエル軍による攻撃中に姉を亡くした一二歳の男の子のことを私は覚えている。街が何日間にもわたって包囲され、その子の姉は自宅中庭でイスラエル兵によって殺害された。みんながその少女について私に話してくれた。その子がいたあとに穴が空いてしまったかのようだった、その子が育った難民キャンプでも、参加していたジェニーンのフリーダム・シアターでも。自由という名を冠したこの劇場は、緊張した地域の子どもたちが、自分の創造性を追求し、内側に抱えているものを表現できるようにしている施設だ。
「どれほどの苦痛をこんなにも小さな身体に抱え込めるのだろう」と私が考えているあいだに、その男の子は眼前に見ているかのように殺された姉の物語をはっきり整然と語ったのだった。
また、二歳のライラ・ムハンマド・アイマン・ハティーブちゃんは自宅で家族と一緒に夕食を取っていると、イスラエル兵から首すじを撃たれた。二〇二五年一月のできごとだ。いくつの新聞がこの事件を取り上げたか。なぜパレスチナ人の命(そして死)については、語られる場も語る声も私たちの社会の中にないのか。
それどころか、こうしてイスラエルはパレスチナの人びとの中に憎悪の種をまいているというのに、これが理解されないことは信じがたい。
それでもなお、二〇二三年夏の午後、もう一つ私に印象深く残ったことは、ガザの少人数グループでのディスカッションで規律正しさ、柔軟性、相互の尊重が強く感じられたことだった。子どもたちが経験している状況や苦しんでいる剥奪に向き合えるよう、子ども会議という話し合いの場が、民間組織によって設けられていた。二人の女の子たちが丁寧に話し合うやりとりが思い出される。一人がこう言っていた。「封鎖と包囲は確かにみんなにとって恐ろしいことだけど、少なくともあなたは、白血病のせいで、ヨルダン川西岸地区へ行くことができたし、山が並んでいるのも見たのでしょう。私は山なんて一度も見たことがないよ」
病気は、子どもたちと私のやりとりの中でよく上がってきたもう一つの話題だ。ガザでは例えば、ジェノサイド開始前からすでに、土地は汚され、人口過密となり、不発弾がそこかしこに残され、水は飲めなくなっていた。汚染がどこにでも広がり、白血病や悪性腫瘍に苦しむ患者の数が、子どもたちの中でも激増していた。国連や他の人道支援団体による複数の報告書では悲惨な状況が記録されており、ガザの子どもたちの患者もまた、四~五歳であっても、ヨルダン川西岸地区で医療を受けるために独りでの移動を強いられた。このような制限は、イスラエルが二〇〇七年以来ガザ住民に対して講じてきた極めて広範な治安上の措置の一環であり、パレスチナ人の移動の自由をすっかり抑圧する悪影響を及ぼしてきた。ガザには必要な保健施設が不足していて、このせいで多くの世帯が域外での医療上の援助を求めざるをえなくなっていた。このため子どもの安全が危険にさらされていただけでなく、幼い患者は弱っているまさにそのときに家族と離れていなければならないので、両方に大変なストレスがかかっていた。それでも通常パレスチナの人びとは極めてしっかりと互いを支えあっていて、必ずもてなしてくれる友人、保護者、人道支援組織の職員などがいるのだった。
これが、パレスチナでの子ども時代だ。
あるいは、私と話した子どもたちがまだ全員生きていてガザに活力があったころは、まだよかった。今や攻撃によってガザは、住宅から家族、一人ひとりの人生までがめちゃくちゃにされてしまった。二〇二三年、あの子どもたちが私に語ってくれたガザはもう存在しない。私が知っているヨルダン川西岸地区の大部分も、このページを書いているあいだに破壊されている。たとえ殺戮を生き延びた人が再建の意志をもっていたとしても、残っているのはがれきばかりで、ガザの廃墟にはまだ灰が降りやまない。五〇〇日間以上ほぼ絶え間ない爆撃を経てもなお、爆弾が今も雨あられと落とされている。
二〇二三年一〇月に始まったパレスチナ人ジェノサイドのただなか、ロンドンで登壇した講演会で、ガッサーン・アブースィッタ医師がこう語るのを私は聞いた。「子どもたちが死体となって、ばらばらの肉片になって、あるいは重傷を負って病院へやってくる。病歴を尋ねても、誰も知らない。助け出した人びとの子どもではなかった。両親は殺されてしまっていた」
これもまた、パレスチナでの子ども時代だ。


パレスチナで成長するということは、常に恐怖や不安の中で入植者や兵士の暴力に取り囲まれて子ども時代を送るということだ。「なぜこんなことに? 自分たちは他の人より劣っているというのだろうか」などと極めて苦しい自問をせざるをえない状況だ。
だから私の少人数ディスカッションに参加した子どもたちが大人のように振る舞い、私と話していたときでさえ力を誇示して自分たちの権利を強く求めていたのもあまり驚くべきことではない。私は子どもたちにこう言ったものだった。「ねえ、私がここにいるのはあなたたちの話を聴かせてもらうため。これは私の仕事。私の報告があなたたちの報告となるように、また私が物語ることすべてがあなたたちの声で話すようにしたいと本気で思ってる。何かが変わるかは分からないけれど……」。だが結局、事態は悪化した。私たちが抱いていた懸念や想像をはるかに超えて悪化したのだ。「……それでもこれは、私の約束だよ」
あの夏は特に、私の子どもたちから初めてこんな問いかけが聞こえてきたことでも記憶に刻まれている。「どうして自分たちとじゃなくて、コンピューター画面の向こうの子らとそんなに長い時間過ごしてるの?」 この子たちにとっては不思議なことだと承知の上で、そしてきっと理解はされないだろうが将来思い出してもらいたいと考えながら、私はきちんと答えようと努めた。「どうしてって、もしも私が画面の向こうのあの子らのような境遇で生きている子のお母さんだったなら、誰か他のお母さんに私を助けてもらいたいと強く思うだろうから。そしてパレスチナにいる自分の子どもたちだって、ここにいる他のお母さんの子どもたちと同じ権利をもっていると考えるだろうから。そう、海辺にいて、一日中そこらを半裸で歩き回って、ウニのとげが刺さらないか、誰がブイまで一番にたどりついたかで友だちとけんかにならないかと気にしていられるあの子どもたちと、同じ権利をね」
まるで、あの画面のこちら側からとあちら側から―明敏で鍛えられたあの子らがいる一方からと、悩みなく夏休みを楽しんでいたあの子らがいる他方から―内からの声と外からの声が聞こえているかのようだった。ただ、それから数日間、内外の区別が難しくなった。
一年あまり後、私はチュニスの自宅にいた。午後、窓の外で、私から数メートルのところに、縄跳びをしては笑っている私の息子ジョルダーノがいた。そのあいだ、私のモバイルPCの画面には、自分の息子が生きながら焼かれている自宅へ必死に叫びながら駆けていくガザの母親の映像が流れていた。
これが、パレスチナでの子ども時代だ。

子どもの保護は、「パレスチナ問題」などといわれるものの議論の中心にあるべきだった。あらゆる子どもに、安全、尊厳、自由が感じられる環境で保護される権利を保障するために。
それに反してあの状況では、パレスチナ人の子どもが自分を常に暴力にさらす絶対に正しくない体制の中で成長するだけでなく、イスラエル人の子どももまた被害者となっている。イスラエル人文献学者ヌリット・ペレド=エルハナンが指摘したように、幼いころから他者に対する不安と疑念を教え込まれ、暴力に慣れさせられ、政治家のリーダーやときには両親のイデオロギーから人種差別的な支配と蹂躙に基づく世界観を植え付けられることは、子どもたち自身が選んだことではない。
そうだとしても子どもは育つ、そして今日の子どもは明日の大人である。何世代にもわたるパレスチナの人びとから私たちが受けるべき教えが一つあるとすれば、かの人びとは占領に屈さず、術があるなら可能な限り抵抗するということだ。パレスチナ人は実際、一九三六年から一九三九年まで、自分たちの土地を安売りしたイギリス人に対して抵抗した。一九八〇年代末にかけて、ガザ地区ジャバリヤ難民キャンプでイスラエル軍のトラックにはねられてパレスチナ人四人が殺され、被占領地全土で抗議行動がおき、占領に対する最初の蜂起(第一次インティファーダ)が勃発したときも、かの人びとは抵抗した。二〇〇〇年に勃発した第二次インティファーダ中もかの人びとは抵抗し、前回とは異なり、パレスチナ人側からも致死的暴力が振るわれた。レジスタンスは、いつもではなかったにせよ概して平和的な方法で続けられてきたが、あいにく、抑圧が暴力と憎悪に満ちたものになればなるほど、それを押しのけようとする力も暴力的になる危険があった。
パレスチナの人びとは最初からずっと、占領とアパルトヘイトからの自分たちの解放を主導したいと考えている。この集団的決意は時の流れの中でますます具体的かつ決定的な形をとるようになった。例えば二〇二一年、エルサレムのパレスチナ人住民全体に対する暴力と虐待が何度も押し寄せた後、大規模な抗議運動が発生したさなかでもそうだった。この抗議の先頭に、かつて私が住んでいたシャイフ・ジャッラーフ地区の青少年の多くが立っていた。その中にあのムハンマドと妹ムナーもいた。翌年、この双子の兄妹が登場する記事をたまたま読んだとき、顔立ちをよく知っているような気がしたが、その瞬間は正確に何かに結びつけ直すことができなかった。その後、ムハンマド・エルクルドの子ども時代の写真を見て、私は彼を知っていたことにようやく気づいた。私たちが暮らしていた家の前で遊んでは桑の実を集めに来ていたあの子だ。幼くしてすでに完璧な英語で話し、当時三〇代だった外国人女性に言われるがままにならなかったあの男の子。
今、ムハンマド・エルクルドはジャーナリストにして作家となり、パレスチナの人びとを擁護する最も強力な論者の一人となっている。彼が書いた詩の一節にはこうある。「私は犠牲者ではない/世界が私をそう言わないうちは」

パレスチナにおいて子ども時代とは、犠牲者たちの、恐怖の、そして安全に保護されて成長する権利を奪われた未成年者の物語である。たとえ多くの親たちが、映画『ライフ・イズ・ビューティフル』のように、美しくない現実の中で精一杯何らかの方法で自分たちの子らに落ち着いた生活を送らせ、当たり前の感覚を身に付けさせていたとしてもだ。私の個人的な仕事上の経験の中で出会ったパレスチナの幼児や少年の多くが、今ではもう亡くなっているという現実。一人の人間の命が、数百発もの銃弾を撃ち込まれた車の中で、六歳で尽きるということが起こりうる現実。ちょうどヒンドに起きたように。
現在、ヒンドの名を冠した組織が、パレスチナにおける戦争犯罪や人道に対する犯罪の主犯、従犯、教唆犯を相手取る法的措置に取り組んでいる。ヒンド・ラジャブ基金だ。
この取り組みはとても重要だが、それでもその死、苦痛、恐怖は、打ち消されはしない。
まさに一四歳のワディーアが私にこう話したように。「死の恐れを知ったとしても、死ぬ妨げにはならない。生きる妨げになるんだ」
これが、パレスチナでの子ども時代だ。

もくじ

はじめに 連帯は愛の政治的形態であるか

ヒンド パレスチナにおいて子ども時代とはどういうものか
アブーハサン 占領の結果として何がもたらされたのか
ジョルジュ エルサレムで生きるとはどういうことか
アーロン いかにして一人の人間が反ユダヤ主義と認識されるのか
イングリッド アパルトヘイトはどうすれば打倒できるか
ガッサーン ジェノサイドのむごたらしさはどこまで行ってしまうのか
エヤル 一つの民族の破壊を引き起こす条件はいかにして企てられるのか
マラク 難民にとって故郷はどこにあるのか
ガボール どうして人びとの記憶を守ることがそれほど大切なのか

おわりに 習癖としての希望

謝 辞
参考資料
訳者解説 抵抗する物語たちよ、これからの私たちを作れ  原口昇平


【著者・訳者略歴】
フランチェスカ・アルバネーゼ (著)

1967年以後占領されているパレスチナ領域の人権状況に関する国連特別報告者。法律家、教員、研究者であり、国連人権高等弁務官事務所や国連パレスチナ難民救済事業機関の勤務経験もある。

原口 昇平 (訳)

詩人、翻訳者、ライター。「現代詩手帖」パレスチナ詩特集に共同企画者・翻訳者として参加。2026年4月から東京藝術大学非常勤講師(イタリア語)。


世界が眠っているあいだに
2026年8月4日発売
四六判並製、296ページ、3080円(税込)
書籍 978-4-86863-005-0

2026年9月号(最新号)

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